仕事をするのは偉いのか?

シェアハウスの同居人でありバンドメンバーでもある松田くん(33)はよく「洗濯回して偉い!」と自分のことを褒めている。

福永が皿を洗う行為も「偉い」判定である。「えらいね〜」と言ってくる。
こういうパートナーと結婚すると長続きしそうであるが、残念ながら福永の恋愛対象は女性である。

そんな彼に言わせると仕事をするのは偉いこと、だそうだ。
だって本当は遊びたいのに、生活のため、必要に迫られて、したくもないのに、仕事をする。
したくないことをするのは偉いことなのだ。

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福永には友人が多分10人くらいいて、そのうち半分がバンドメンバーである。つまり、残念ながら、バンドメンバーを除くと片手で収まる人数しか友人がいない。

福永はそれについて悲観的になったことはない。
そもそもほとんどの時間家にいて、防音室で一人、このコンプの色はティンホイッスルのオフの時合うかもなぁ(ニチャァ)とかやってるのに友達が増えるわけがないのである。

大人数の飲み会は苦手だし。

バンドで定期的に行くリハーサルスタジオでは、松田やゆうやけなんかが常連としてスタッフ・他の常連とも仲良く話している。
にこやかで慈しみのある友情の団欒。

でも別に福永には…家に帰れば楽器がいっぱいあるので。

全然、さみしくなんかないのである。
さみしくなんか…ないのである…。

でまあ、それはおいといて、我が家の鍵は物理的・精神的に開けっ放しになっているので、友達がよく勝手に家に居る。来る、というよりは居る。

片手に収まる友人の中でも親指みたいな太さの男(フィジカルの話ではない)がいて、この男くらいになると週に4日くらいうちに居る。友人に順列をつけるのは違うと思うが、週に4日もうちに居ればさすがに親指である。家賃請求していいかな?

その友人(22)は松田くん(33)とは対照的に、仕事をすることは偉くないという。言い換えると「仕事をすることを"偉い"としてしまうことに、危険性を覚えている」

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23~27歳くらいは福永にとっての転換点・暗黒時代であった。
元来負けず嫌いが特異すぎる異常値に達している人間なのだが、福永の所属するバンドaireziasが泣いても笑っても逆立しても売れない

頻繁にミーティングし、さまざまに立案をして実行した。
マーケティングの本を読み、SNS運用に関する本を読み。
役に立ちそうなありとあらゆる情報に飛びついては消費し、実行して効果を試した。
でも、売れない。

そうこうしているうちに仲良くしていたバンドがあちこちで売れた。旅立ち、一緒のライブハウスに出演しなくなり…そしてしばらくすると解散した。
一線で華となり、散りゆくまでの間、福永は仲の良いはずの人たちの音楽を聴くことができなかった。

自分(たち)が作る音楽、歌詞、プロモーション、活動…に、全てをベットしている自分の人生…つまり自分自身が、この世に不必要なものであるように思えた。友人の光で色濃く映った自分の影と向き合う方が、まばゆい光を直視するよりはまだ幾分か目に優しかった。

もっと何か、効果のあることを思いついて、実行しなければ。
ほとんど四六時中、それしか考えられなくなっていった。

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そんな頃の話である。
八丈島出身の友人が「島でフェスを企画したい」という。
渡航・島内の案内なども含めた、旅行+音楽フェスのパッケージとして売り出していく。
島のPRにもなるし、友人自身もバンドマンなので、ライブ出演もする。

そのライブに出演してくれないか?とオファーを頂いたのである。

今だから言えるとしたら正直な話、それ、お客さん来るかな…?と思っていた。
既に知名度のある広告塔となる出演者、出資・協賛を頼めるだけの信頼をもった企業など、バックグラウンドのない中で企画・運営をすることは、ロマンはあれど無謀に思えた。楽しいけれど、益がない。

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そして、それはaireziasにとって「売れるチャンスになるのか?」
バンドにとって何らか、役に立つことなのかどうか考えた。
あまりメリットを感じることはできなかった。

だが、メンバーが八丈島に目を輝かせていた。
行ったことあるんだけど、めっちゃ楽しいよ!八丈島!

めっちゃ楽しいのは良いんだけど、なにかを持って帰れるのかしら。
多くの人に知ってもらえる機会になるのだろうか。
その「楽しい」時間を削って、もっと何か役に立つ、売れることにつながる行為を考案・実行することのほうが大切なんじゃないだろうか…。

メンバーに押される形で「まあ友人の役に立つならそれがメリットか」と半ば強引に納得し、八丈島フェスに出演した。

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ステージの上から見下ろした観客席には、出演者を除くと恐らく10人くらいの人物しかいなかった。

案の定、イベントとして、大きな動員はできなかったのである。

(ここでは使ってしまったけれど、福永は動員という単語が、嫌いである。好き好んでその会場に来た人々のことを、動員なんて呼ぶな、と。)

だが、そのライブに出演するバンドマン達はみんな、心底楽しそうに演奏をした。
それを観ている物好きでコアなファン(といってもきっと、誰かの友人や、友人の友人が殆どだっただろう)も、心の底から楽しそうに、島を、音楽を、非日常を堪能していた。

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会場近くの(確か)ラーメン屋で打ち上げが行われた。
全員が全員、地の底を這うような金欠だったはずだが、本当に食い切れるの?ってくらい多くの料理を注文し、アホ極まるほどビールを飲んだ。

この時初めて知ったことがある。

何ら社会的成果をあげられなかったとしても、楽しい時に、楽しい顔をして、大いに楽しみ尽くしても、別に良いのである。

どちらを選ぶか。その選択権は自分にある。

その日、興行的には恐らく1ミリの歴史にも残らない、八丈島のフェス・イベントは、福永の心の歴史に大きな一本の巨木として根付いた。

福永にとって、フェリーで島に行き、演奏をし、ワンピースの登場人物みたいな打ち上げをし、幸せそうに倒れる友人達をみる…そういうことが、弾むほど楽しかったのである。


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は以前フォークソングを歌うグループに所属していたらしい。
鹿児島の家を半ば家出の勢いで飛び出し、東京に来た。
音楽をするには、反対する両親の両の手から身をかわすには、そうするしかなかったようである。

幼少期・小学校・中学校を卒業するくらいまで、福永はそれを知らなかった。
父がそれについて口を割らなかった、語らなかったからである。

福永は家にあるマーチン・ギターの黒いハードケースを滑り台だと思っていた。
どこかに立てかけて、斜めにしたのち、上から滑って遊ぶのである。

23~27歳の暗黒時代の時分に、父に「なんで売れなかったんだと思う?」と当時を振り返るように促したことがある。
賢者は歴史から学ぶ。同じ轍を踏まないための情報収集である。

父はややあってから、斜め上に視線を飛ばしたまま「…本当の本当に本気で売れようとは思ってなかったから、じゃないかな…」と言った。

それ以上は語らずに、相変わらず視線は斜め上を向き、目をやや細めたまま停止していた。

本気で売れようと思っていない。情けない話!
努力の量ベクトルの精査が足りていなかったのだ。

当時そう思い、がむしゃらに努力の量とベクトル精査に明け暮れた。
結果主義。答えは結果として今にわかる。

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あれから5年が経ち、今なら父が言った短いセリフに含まれた情報量について、わかる気がする。わかってしまう気がするのだ。

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福永にとっては多分、成果が出ることが楽しかった。
成果が出るようなことを行う。その時間は有益に見えた。
努力家、なんて称されることが少なからずあるのだが、有益に見えることに体や時間を費やすことは「やってやったぜ」という実感が伴うので、実は簡単だ。

一方、ただただ馬鹿話をする飲み会や、無益に思えるゲームに費やしたプレイ時間。そういうものは無益に思えた途端、虚しくなってしまう。
続けられない。その楽しさが、空っぽの楽しさなんだとしたら。
その時間がもったいなくてしかたなくなってしまう。

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伊澤一葉さんにライブ出演のオファーをしたことがある。
全く売れない福永は、努力の一環として、伊澤さんが出演するライブを観た後(観に行ったのは作戦ではなく、本当に純粋に彼のピアノが好きだからである)打ち上げにさも関係者っぽい顔をして居残り、話しかけたのである。

若気の至りというか、度胸は認めるけど普通に迷惑だからやめなさいって感じですね。ろくな大人にならないので、こういうアホな行為はやめましょう。

伊澤さんは粋な人で、そういう若い人たちの小さなイベントに出てみたい、なんだかいろんなことを忘れてしまっている気がするから、と好感触でご対応頂き、そして実際にその後、本当に共演して下さった。(もはやちょっと優しすぎる気もする…)

「本当に売れている人・本当にカッケー人ほど、全っ然偉ぶらない。」
という統計データが福永の中にあるのだが、彼もまたその統計を有意とする方向の人物像であった。すぎるくらいに。

伊澤さんにも質問したことがある。
どうしたら売れますかね。
彼の答えは即答で「売れるかどうかはね、。」
そして「福ちゃん、焦るな。」
そういって微笑んだ。

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「13歳からの地政学」を最近読んで、地政学的にみたこの世界について考える、という新しい視座を手に入れた。入門レベルではあろうけど、地政学について13歳未満の知識水準である福永にとっては非常に面白い本だった。


平和とは何か。それはバランスのことである。

平和を善と定義した場合。戦争状態は悪ということになる。

だが、国を統べるリーダーを決定するにあたって、その国にとって「戦争で戦果を上げた英雄」であることほど、民衆の信頼を得やすいものはない。

人々はまとまり、国は大きくなる。

そうして一致団結したものの、国王が二世、三世となるとどうか。

何ら成果を上げていないくせに鎮座する国王の子や孫に対して反発が起こる。

日本にいるとわかりにくいが(そう、世界的に見ると日本は民族が少なく、国境を海に囲われ、四季があって、他国を占領した経験がある、かなり特殊な国なのだ。190以上の国のうち大多数の国はこの真逆であり、日本的視点に縛られている限り視野は大きく狭まる。)多民族国家なんかでは、分裂が起こる。

分裂し、小さな国に分かれることにナショナリズム的(民族自決的)意味合いはあれど、基本的には分化したすべての国が経済的に衰退していく。

さて、平和とはいったい、どの状態のことでしょう?

強いリーダーが求心力を持っていること?
国民(民族)それぞれのアイデンティティが満たされること?
経済力があり暮らし向きが良いこと?

定義はできないのである。全てはバランスで決まる。
何が善で、何が悪か。それは視点の偏りが決定する。

そして地球は回る。刻一刻と変化をしている。
だから、絶えずそのバランスは更新されていく。

広い視座を持つ。常に変わり続けるそれらを、多角的に見る。感じる。
知る。わかる。またわからなくなる。
バランスとはその繰り返しの営み、そのものである。
決して「バランス」という解のことではない。

…そんなことを、読んでいて思ったのである。

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さて。
仕事をするのは偉いのか、どうか。

偉いとは。例えば経済的(社会的)なメリットを得ること。「〜したい」を犠牲に「〜すべき」を行うこと。

自分を鼓舞するために「洗濯回して偉い!」と定義することには一定の価値があるように思う。洗濯を回す、という「〜すべき」仕事を行わず「〜したい」を選択しても良いという自由があったはずなのに、あえて服を綺麗にすることを選ぶ。そのハードルを超えること。

一方、社会的に偉いとされることを「偉い」=「有益」と思い込み、それをモチベーションの大前提に置く危険性についても、暗黒時代の経験から理解できる。

そのモードに入った人間(つまり当時の自分)は「〜したい」が「〜すべき」に塗り替えられた状態にあると思う。極端な場合それはトランス状態に近い。

「友達と笑い合うのは虚無である。だってそんなことをしてもバンドは売れないから」
…あの頃の後遺症として福永は、未だにコミュ障である。

「偉い」とするメリットが、ある。
だが、一辺倒の状態は、つまらないし危険である。

仕事をするのは偉いのか?
一単語で答えを出すとしたら「バランス」である。
バランスとは答えそのもののことを指しているのではない。
それについて考え、視座を広げ、刻一刻と変わるそれらを見て知り、またわからなくなり、学び、悩み…その営み全般を総じる大きな輪郭のことである。

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八丈島で心に根を下ろした樹は未だに四季折々の姿を見せてくれる。
主観的目線で「楽しいかどうか」という、一つの新しい基準値を持ったきっかけの日だった。

あれから世界には少しだけ色の数が増えた。
世界が昨日と変わっていないにもかかわらず、パレットに色が足される日というのが実際にあるのだ。
そうやって数年を過ごしてみて、今なら父や伊澤さんが言いたかったことが、当時と異なる響きを伴って、わかる気がする。

今の福永だったら、伊澤さんにもっと面白い質問ができたんじゃないか、と悔いる。
だが、あの猟奇じみた行動力がなければそもそもそんな機会は訪れなかったとも言えるかもしれない。

コテンラジオ深井さんに言わせるなら「自然にモチベーションが湧く方へ行った。色々考えたけど、最終的には、そうするしかなかった。」

ここまで語ったような複数の事柄が、まるで全く無関係なのに。
「仕事をするのは偉いのか?」という友達との他愛ない会話の中でスッと一本の芋づるとして過去から掘り起こされて、こんなブログを書くに至る。
土がついたままで何だか恐縮だとは思いつつ。

当時の自分に言いたいことがあるとすれば。

「アンタが虚無で無益に思うような友達との会話の中にだって、有益なものはたくさんあるよ。何をすべきか、じゃなくて、どうしたいのか。焦らずに眺めれば、見えるものは沢山ある。それを見落とすことは、有益なのか?」

そして

「たとえ人から偉いと思われないようなことでも、やりたいんだったらやったらいいよ。長い目で見たらどうせ、それしかできないんだから。

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居酒屋店員をやっていた時にちょっと心に残ったお客さんのセリフがある。
「俺はこうだけど…あんたはどう?」

俺は「こう」だけどあんたも「こう」である必要はないし。
あんたが「どう」であれ俺は「こう」なんだろうなと思うと…。

なんだか心に残ってしまったのである。いいなーそのあっけらかんとした感じ!

仕事をするのは偉いのか?という議題について。

福永はこう思うけど…あんたはどう?


本日はこれでおしまいです。

以下は、路上ライブで言うところの「ギターケース」のつもり。
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