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途中下車ver.note#5

知多半田

2024.1/4

眠い…。朝5時以降はちょっと…どころかかなり早すぎた…。やってしまった。なぜこうもこの男は学ばないのか。しかしここでも当時の私はこういうのであろう。
「この電車に乗りたかった。」と。我ながらどうしようもない男である。ここで自分に対する文句を並べても仕方がないので、早速きっぷを買って旅を始めよう。時間ギリギリだけど。
5:19 普通 知多半田(620C) 9500系
半分駆け込み乗車のような形にはなってしまったが間に合った…。私が乗るまでドアを開けて待っててくれた車掌さんに感謝しないと。(駆け込み乗車は危険です。絶対にやめましょう。)
車両は9500系。2019年にデビューした新型車両で、正面は名鉄電車の象徴であるスカーレットレッドで、側面はそのスカーレットレッドの帯が施されている。
また車内はロングシートで、名鉄初の車内に防犯カメラを搭載し、全車両に優先席、フリースペースを設置するなど、新時代を行く車両である。
 さらに、2024年度の設備投資計画では9500系の新造を発表し、全面デザインを変更。貫通扉をこれまでやや左側にあったものを中央部に変更する発表があった。個人的には今のデザインの方が好きである。

6:05 須ヶ口到着。この駅から普通の1つ上の準急に変わる。少し早くなるのである。

6:15 名鉄名古屋到着。この駅から再び普通に戻る。流石は都会。ごそっと客が降りていった。平日だから当然か。

6:23 神宮前到着。ここで乗務員交代。名古屋本線とは別れてここから常滑線(神宮前~常滑)に入る。
外が少し明るくなって夜明けの時を迎える。

6:48 太田川に到着。この駅から河和線(太田川~河和)に入る。何度見てもこの駅は迫力がある。

7:02 巽ヶ丘到着。(たつみがおか)ここで太陽が登った。1日が始まった。
7:22 知多半田到着。目的地に到着。さて、どうしよう。

知多半田


駅から少し歩いた所にある喫茶店でモーニングを頂いた後、スマホの地図アプリを見ると近くに大きな公園があるみたいなので乗ってみよう。
喫茶店を出て、公園がある方向を見ると急な坂道があった。これ車で登った方がいいのではないか?と思ったが、わざわざ駅に戻ってタクシーで行くのも時間とお金の無駄だと思ったので観念して歩いて登ることにした。そうして登ること数分。雁宿(かりやど)公園に到着。

南吉文学碑(貝殻歌碑)


 公園に着くと早速歌碑が目の前に設置されていた。これは南吉文学碑というもので、南吉とは半田出身の新見南吉のことで、彼は度々この講演に訪れて「小山」と題する動揺を作り、小学校で代用教員をしていた頃には児童と遠足に来ていた。
 昭和18年に結核のため29歳の若さで亡くなった後、昭和36年にこの南吉文学碑が建てられた。南吉の詩「貝殻」の一節が刻まれており、ランプとでんでんむしをかたどったユニークな碑は、旧制半田中学校で南吉の先輩にあたる彫刻家で日展審査員の小田寛一(おだかんいち)氏がデザインした。整地や周囲の植栽には、市民がボランティアで参加して以来、半田市内で最初の南吉文学碑として市民に親しまれている。新見南吉の作品は小学校の頃に教科書に載っていた「ごんぎつね」だけは知っていたが、「貝殻」はよく知らなかったので一つ賢くなった、そんな気がした。
 そのあと、公園の中に入るとちょっとした展望タワーのようなものが建っていた。これは上るしかないと思った私は階段を上って展望台へ。
 展望台に登ると見事な景色が広がっていた。朝の光に照らされた半田の街がとても輝いていて綺麗だ。遠くに目を移すと太陽の光に照らされた半田港がキラキラと輝いていて素晴らしい。
 いい眺めだったのでしばらく眺めていた。

展望台からの眺望。奥に見えるのが半田港。

 さて、そろそろ動こう。展望台を後にした私は公園を散策しようと思い、歩いていると、何やら翼を広げた天使の銅像が。これは何なのか、説明版を見るとそれは殉難学徒之像という。

殉難学徒之像


 昭和19年12月7日、当時は太平洋戦争の真っ只中で※学徒動員で集められていた男女生徒が中島飛行機(株)半田製作所山方工場で飛行機の組み立てをしていた。そんな中、午後1時36分、マグニチュード8の東南海地震が襲った。一瞬にして倒壊した工場の瓦礫に押しつぶされ、97名の命が失われた。この97名の御霊の安らかならんことを祈り、世界の平和を願って建てられたという。当時、戦争に国全体が集中している中で起きた悲劇であり、二度とこのようなことは起きてはならないと感じた。
 そして、後日この東南海地震について調べてみたところ、海底で起きたこの地震によって津波が発生し、伊豆半島から紀伊半島までを襲い、多数の死者が出たこと、その2年後(昭和21年12月21日午前4時19分)に昭和南海地震が発生しており、この一連の地震は南海トラフ巨大地震が歴史上最後に起きた地震であるという。この地震からもうすぐ100年が経つ頃なのでそろそろ危ないなと思うのと同時に、地震の対策をしなければならないと思った。【参考:恐怖のM8 東南海、三河地震の真相(中日新聞社会部)、東南海地震(岐阜県公式ホームページ(防災課))、南海道地震(昭和21年)(岐阜県公式ホームページ(防災課))】

忠魂碑


 さて、そこから少し歩くと大きな石碑があった。これをよく見ると忠魂碑と書かれていた。これは日露戦争における戦いで大切な命を落とした半田町(今の半田市)出身の兵士を慰霊し、その行いに対して感謝の気持ちを表すために建てられた戦没者記念碑である。碑文は日露戦争で活躍した乃木希典対象の筆によるものである。
 陸軍大将自ら筆を執って忠魂碑の文字を書いて、弔いに来ていたのは意外に感じたが、こういう面が今も慕われているのではないかと感じた。
 その他、明治天皇御野立所(おのたてしょ)や、地元ゆかりの文化人の石碑を見た後、駅前に戻り友人と待ち合わせをして半田を離れた。
 さて、次はどこへ行こう。

※学徒動員→昭和18年以降に中等学校(今の中学、高校)の生徒や学生が労働力不足を補うために軍需産業や食料生産に動員されたこと。


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