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大自然と人間を繋ぐ神々への想い ~木曽御嶽山~ 上編

山岳信仰の代表的な山として知られる御嶽山は、平成26年9月に突然の噴火により戦後最悪の火山災害の地となった――。まだ往時の活況には程遠いものの、この山が持つ神秘的な魅力は、多くの人々の心を引きつけている。

※こちらは2019年にYAMAKEIonlineにご紹介いただきました。

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長野県と岐阜県の県境に位置し、古くから信仰の山として多くの人々の心象風景に深く刻まれてきた木曽御嶽山。平成26年の御嶽山噴火は戦後最悪の火山災害として、山好きに限らず、日本に住む人であれば知らない人はいないほど、我々に驚きと恐怖、そして悲しみをもたらせ、自然の驚異的な力をまざまざと見せつけることになった。みなさんの記憶の中にも鮮明に刻まれた出来事ではないだろうか。


平成31年の現在でさえ、突発的な火山灰などのごく小規模な噴出には最大限の注意が必要だ。入山が出来たとしても各自治体による立ち入り規制などがところどころに存在する。本来はどの山であろうと当たり前の話だが――、今後御嶽山各所の規制が緩和されたとしても、入山をする際には最大限の注意を払い、出来うる限りの準備をして大自然への畏怖の心のもとに足を踏み入れなければならない。


直近における痛ましい災害記憶の強く残るこの御山のことを、どのように紹介すべきかは大変に頭を悩ませた。多くの方にとってご存じの事ばかりかもしれないが、祈りの山であり山岳信仰の代表的な存在としての御嶽信仰について、また自身においても思いを馳せるシンボルである御嶽山そのものについて、火山災害から丸4年たつこのタイミングであえてここに記していきたいと考えた。


この記事をご覧いただいた読者の方で、今後もし御嶽山への登拝を検討されている方がいらっしゃった場合、くれぐれも前述の通りの意識のもとに、その山行に取り組んでいただきたいと心から願っている。

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夏の木曽御嶽山に登ると、白装束に身を固めたたくさんの人々に出会う。これらの人々は御嶽山を信仰の対象とした「御嶽講」と呼ばれる集団が行う夏山登拝の参加者である。人々は先達(信仰の山における指導者的な役割のこと)の指導のもと、元気な子供も足腰が弱った高齢者も一体となり、助け合いながらゆっくりと着実に山頂を目指して歩を進めていく。


また、これらの人々は山中各地の拝所において、修験者(山伏)のように印を結び仏教の真言や経文を唱え、一方では神道の祝詞を唱え拍手を打ち、祈りをささげ、さらには山中の聖地や山頂において「御座(おざ)」と呼ばれる神おろしの儀礼をおこなっている。すべての講が同じというわけではないが、多くの「御嶽講」が神道の神と仏教の仏をともに大事にする神仏習合的な信仰を登拝や儀礼を通して伝えてきた。


しかし同じ山岳信仰の世界であっても、修験道の行者と「御嶽講」の先達や信徒には若干の違いが見て取れる。


そもそも修験道自体は、どの御山での修業なのかによって信仰形態は異なる。とはいえ多くの修験者たちはいかめしい装束に身を包み、山々を風のように駆け抜け、岩場をよじ登り、生と死の狭間を行き来することも修行として取り組んでいる。


それに比べ御嶽における先達や信徒は簡素な白装束を身に纏い、ゆっくりと講中(参加者)全員を山に引き上げるように登っていくことを常とする。こう考えると修験道と「御嶽講」は大変良く似た部分と異なる部分を持ち合わせていると言えよう。


似通う部分としては、ともに御山に生きる草花や木々、岩や川、風や雲など自然そのものと、その現象すべてに神仏の存在を見出し、「おつとめ」や「勤行」と呼ばれる参拝の際に唱えられる経文や真言、祝詞の奏上といった宗教儀式の行い方を挙げることができる。


一方で異なる点としては、例えば大峰奥駆け修行や羽黒山秋の峰入りなどに代表される山伏修行は、強い体力と機根が求められるやや専門的な修行であることから、誰もが気軽に参加できるものではない。しかし「御嶽講」の登拝の場合、希望するならば児童も高齢者も山に導こうとする大らかな抱擁性が強く、大袈裟に言えば誰もが山行に参加できる点にあるといえる。

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とはいえ、そんな御嶽信仰の担い手である「御嶽講」も、もともとは修験道そのものを母体としており、その宗教的儀式は修験道から習い学んできたと考えられる。おそらく山に神や仏を感じ、その地で始まった信仰の原点は修験道であった。


その後の時代の流れの中で江戸時代後期に本格的に始まった「御嶽講」は、母体の信仰形態を保持しながら、修験者という、言うなればプロの宗教者ではなく、俗世間に生きる庶民みずからが登拝や修行、祈祷といった宗教活動の担い手となることで、独自の展開をしてきた。


さらに明治維新後には当時の国家的な宗教政策の影響を多分に受け、各講それぞれに神道的な要素を強く取り入れ、神道の教派神道各教団に変貌を余儀なくされた。その結果、今でも聞こえてくる御嶽教や木曽御嶽本教などの教団を創りあげることとなった。

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このように御嶽山は近世から近代にかけての、日本の山岳信仰史や宗教史の大きな転換点を代表する霊山であるといえる。


この木曽の御嶽山をはじめて仰ぎ見た時、誰もがその山容の素晴らしさに感動するに違いない。特に、初夏や初冬のころに山頂の峰々に雪を抱いた姿を見ると神々しいまでに美しく、また裾野に広がる深緑の森林や紅葉の谷などには、季節を問わずその姿のなかに神や仏の存在を感じてしまう。夏の山頂に身を置けば、紺碧の空、雄大な雲に手が届くのではないかと思え、周辺の山々や岩場に咲き誇る高山植物に目を移せば、そこが神や仏のおわす在所であることを実感する。


至ってシンプルな神々との交流は、当たり前のように眼前に広がる大自然への感謝と畏怖の心の先にあり、古くは修験道の形態に習いながら、特徴のある信仰の山として歴史を刻んできた。その独自性は、御嶽山麓の各集落、特に黒沢と大滝に鎮座する両御嶽神社を中心とした山への信仰であることや、江戸時代中期に御嶽山信仰を昇華させた中興の祖・覚明行者と普寛行者とその弟子たちへの信仰でもあること、また山頂を守る御嶽大神、山腹の各要所を守る諸神仏、山麓に祀られた諸霊神など山中に祀られた神々が一定の秩序の内に配置されて祀られていることに表れている。


人々はそうした神や仏の存在に導かれ、四季を通じて登拝を行い、その体験がともに登った仲間との信頼関係を作りあげ、信仰を深め、集団登拝の際の結束に重要な役割を担っていると言える。こうした様々な要素が全体として相互に関係しながら御嶽山信仰が成り立ってきた。これらの要素を構成する基本は「大自然と神(仏)と人間」の調和ある関係にほかならない。


僕らは大自然の一部であり分身である。このひとつの小さな命もその他の多くの命に囲まれ、守られることで成長し生きている喜びを得ているものだと思う。大自然だけが特別なものではなく、人間の命すらも大自然の形成要素の重要な存在なのではないだろうか。


自然があり人がいて、それらを繋いでくれる神や仏の存在を感じることができたならば、古くからの信仰が時とともに形を変えたとしても、僕らの心に刻まれた御嶽山という心象風景は薄れることなく後世に繋げていくことが出来るように思えてならない。



自身の御嶽山への想いを綴る形でこの記事を書かせていただきました。平成26年の火山災害のなか、御山にて命を全うされた方々とそのご親族や関係者の皆様にとって、つらい思いを振りかえさせることになってしまうのではないかと頭を悩ませました。


同時にこの記事が少しでも故人を偲ぶきっかけになることができたらという勝手な思いのもと、あの火山災害が僕らに教えてくれたことを、僕自身、今後の山とのかかわり合いの中で忘れることなく心に刻んでいきたいと思っています。

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※こちらの記事は、YAMAKEIonlineに掲載していただきました。


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