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明治の日本画壇その後 どこの世にも派閥がある

(カバー写真は岡倉天心
先日「日本画ってなぁに」の投稿で、日本画というのはフェノロサが行った講演で語られたのが最初であり、当時西洋から入ってきた洋画に対して日本の美術作品の良いところを指摘したと紹介しました。

この講演会は1878年に設立された龍池会という美術団体が主催したもので、会の趣旨は日本美術を守ろうというものでした。一方でフェノロサと岡倉天心は同年1878年に鑑画会という「西洋のいいところも取り入れよう」とする美術団体を作っています。

鑑画会で名を上げたのが狩野芳崖と橋本雅邦ですが、龍池会のメンバーも取り込んで、1887年に東京美術学校がフェノロサ、岡倉天心らによって設立されました。
 
岡倉天心は画家ではないですが、東京美術学校で絵の心を説いてさまざま画家を育てました。ところが1898年に学内の派閥争いで失脚し、弟子を連れて学校を離れ、同年1898年に日本美術院を設立しました。横山大観、下村観山、菱田春草、橋本雅邦がおり、こちらは従来の日本画だけでなく、新しい表現を模索するので新派と呼ばれます。
日本美術院は現在「院展」という美術展を主催しています。また大学を出発点とした団体ですので、文部科学省系のつながりが強いです。
 
一方旧派の龍池会の主要メンバーは新たに日本美術協会を立ち上げ、皇室のメンバーを取り込んで発展を続けます。現在日本美術協会はフジサンケイグループの一つの団体です。
池上秀畝が代表的作家ですが、新派に比べると歴史に名前があまり残っていないですね。
また、現在は社団法人で「日展」という美術展を主催していて、宮内庁とのつながりが強いです
 
新旧の2つの団体は融合/対立しながらも現在も続いています。
2つの展覧会、派閥の歴史を知れば見方も変わる?



院展(日本美術院)
https://nihonbijutsuin.or.jp/
 
日展
https://nitten.or.jp/
 


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