「名付けること、幸せを願うこと、束縛すること」と音楽

ペンネームやラジオネームのように「自分で自分に名前をつけてみる」ということをすると不思議なくらい『自分』に対する意識が変わり「私って、こんな一面があったんだ…」と自分に対する発見ができます。

何かに名前をつけることは「こんな存在である」という宣言であると同時に「こんなふうなってほしい」という願いでもあるので、私達は、意識的あるいは無意識的に、自分の名前に合わせて行動しようとするからです


そういう観点から考えると『子どもに名前をつける』という行為は「こんなふうな幸せをつかんでほしい」という祝福であると同時に「このようになれ」という期待を押し付ける束縛の面があるな…と思えてきます


もちろん、親御さんや養育者は子どもの幸せを願って名前を付けますし、それはとても愛情深い尊い行為です。


しかし、その名前の意味する性質に反する行動をすると「○○って名前なのに…」と世間から批判を受ける可能性がありますから、その子の気持ちに関わりなく、その子がどんな行動をするかを縛っているとも言えるのです。



クラシック音楽の世界にも似たようなことがあります。


作曲家が「この曲は先入観なく純粋な音楽として聴いてほしい」と名前をつけなかった曲に、演奏会の興行主や出版社が「なんかこう、話題になるような名前をつけないと売れない」と言って勝手に名前をつけてしまった曲がたくさんあるのです。


そうすると聴衆も曲を聴く前にその名前を聴いて、イメージを膨らませてしまうので、そのイメージに沿った聴き方になってしまい、作曲家が最初に意図した聴かれ方ではなくなることがあります。


そういった名前が作曲家の了解を得ている場合はまだ良いのですが、マーラーの交響曲第8番に興行主がつけた「千人の交響曲」などは、マーラー自身はとても嫌がっていたそうですので、なんだかなぁという気持ちになります。


さてさて、これを読んでいる皆さんも「もっとも自然な自分が出せたり、素の自分になれる名前」を考えてみてください。


意外な発見があるかもしれません(*^▽^*)


えっ?私が自分につけてみた名前ですか?それは秘密です(笑)

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