『弱さは罪なのだろうか?』という疑問と音楽

心理学の教科書で『いじめ』に関する記述を読むと『いじめを見て見ぬふりをする傍観者は、いじめを黙認することで、いじめに加担している加害者とも言える』と書いてあります。

しかし、いじめの傍観者は見たくないいじめを見せられ『止められない』という罪悪感を抱かされ『次は自分かもしれない』という恐怖を感じさせられる、という被害者でもあるのではないかな…と私は思います。

もちろん、ほとんどのケースで多数派である傍観者達が『いじめを止めよう』と立ち上がれば、いじめが止まることは多いでしょうし、たいていの傍観者は内心『いじめを止めたい』と思っているでしょうから、意見をまとめることさえできれば、いじめがなくなることが多いと思います。

しかしながら、この『意見をまとめる』というのが、実に大変です。傍観している人達は(上記のように被害者でもありますから)、『いじめを止めたい』という気持ちの他に『関わり合いになりたくない』『次の標的になりたくない…私が次の標的になったときにみんなが助けてくれないかもしれない…』という気持ちもあり、自分から積極的に動くことがなかなかできません。

たいてい『どうしよう…』と迷ったり、他の人の顔色を窺ったりしているうちに、事態が悪化していきます。

この構図は、いじめの問題だけでなく様々な社会的な問題に当てはまるような気もします。

多くの人が内心『この問題を何とかしなきゃ…』と思っていることについて、その人達が話し合ったり協力し合ったりすれば(目標の設定や、どの解決方法を採用するかを決定する為の議論等に時間がかかることもあるでしょうけれども)改善し得る問題が、この社会にはいくつもありますが、なかなかうまくいきません。

これに対して『問題があるのを知っているのに「何もしない」というのは罪である』という主張もあります。

そういった主張を聞くと、私は『弱さは罪なのかなぁ…、罪であると責め立てる以外の、他に良い方法はないのだろうか?』と思います。

そう思ってニュースを観ていたら、イランのデモ隊がスカーフ問題への抗議として、第二次世界大戦中にイタリアで流行ったプロテストソングのベラ・チャオを歌い、世界中の共感を呼んでいるという記事を見つけました。

この記事のように音楽は、時代も国境も文化も越えて人々を連帯させます。

そしてそういった連帯によって多くの傍観者達が力を合わせたとき、さまざまな問題が解決するのではないかと思います。

人間の弱さを乗り越えるために必要なのは音楽かもしれません。

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