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都内の城巡り - 渋谷城編

渋谷…

押しも押されもせぬ東京、いや日本屈指のショッピング街で、若者を中心に、新しい文化を発信する街。令和の世を生きる我々の多くはこのようなイメージをこの街に持っていると思います。

「渋谷」その名前の由来

ところで「渋谷」という名前ですが、これは、平安後期〜室町時代にかけて、「澁谷」氏の館があったことから由来しています。

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かつての渋谷城に用いられたとされる石。今も、神社の敷地内に展示されており、直接、触れることもできる貴重な石です。

渋谷一族で有名なのが、「渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)」後の、「土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)」です。

このお方のお名前を覚えたところで、多くの方の人生には1ミクロンも影響はないのでお忘れください。ただ、金王丸さんが生きた時代は、平安後期〜鎌倉前期、まさに今年の大河ドラマ=「鎌倉殿の13人」の時代と重なり、金王丸さんも、大河ドラマに出てくるかもしれず、金王丸さんを知っていると一つ大河ドラマの楽しみが増えるかもしれません。

数学と渋谷

鎌倉幕府の設立に大きく貢献した渋谷氏ですが、徐々に勢力を失い、戦国時代の騒乱の中で、渋谷城も炎上してしまいます。

時代が降り江戸時代。徳川家光の乳母として有名な春日局の寄進により現在の社殿が造営されました。

江戸時代、この神社で有名だったものが、「算額」です。

算額とは、数学の問題を神社に奉納したものなのですが、この問題がかなりの難問。先日、NHKの某歴史番組で、この「算額」が取り扱われており、実際に算額に書かれた問題を天下の京都大学大学院生に解かせたところ、誰一人、制限時間内に解けないほどの難問でした。

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金王八幡宮に江戸時代後期に奉納された算額。実物が展示されており、近くで見ることができます。

こちらの写真の算額。日付を見ると安政6年とあり、大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外ノ変」の前年に奉納されたことがわかります。

さらに、この算額を奉納した人の名前を見ると「西條藩 山本庸三郎貴隆」とあり、今の愛媛県西条市にあった西条藩の武士ということがわかります。
黒船が来航し、世の中が、鎖国か開国かで揺れる中でも、意外と市井の人々は、それぞれの生活を楽しんでいたのかもしれません。

この山本なにがしという武士の詳細は、僕は詳しくはわからないのですが、おそらく、参勤交代で江戸にきていた武士だと思います。

江戸で、高度な数学を学び、その知識を、参勤後、西条の地に戻った時に西条の人々にも教えていたと思います。この算額を通じ、参勤交代のリアルと、それが日本社会全体に及ぼす意義について改めて考えさせられました。

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西条藩の江戸における屋敷(上屋敷)は、現在の青山学院大学の敷地にありました。左が幕末の地図。右が現在の地図です。画面左(西側)の湾曲している道は、江戸時代から続いている道だとわかります。山本さんが金王八幡宮に算額を納めたのは、古くから渋谷の守り神であったのと同時に、江戸の屋敷がこの神社に近かったのもその理由の一つだったのかもしれません。(古地図画像:「大江戸今昔めぐり」のアプリから抽出しました)

終わりに

最後に、なぜ、人々は、数学の問題を神社に奉納したのでしょうか?

もちろん、算額を通じて、自らが到達した、学問の知識を人々に見せつけたいと言った、一種の自己顕示欲みたいなものがあったのかもしれません。

ただ、金王八幡宮によると、自分が成し得たことは、もちろん自らの努力によることもあるかもしれませんが、「神様のご加護によること」という考えが当時の人にはあったと解説されています。

「自ら取得した知識も、自分だけの力ではなく、世の中の人々と神様のおかげなので、感謝の気持ちを込めて、自ら手にした知識を神社に奉納する。」

そんな、謙虚な思いがこの奉納された算額の本当の意味なのかもしれません。

今回行った場所:金王八幡宮(東京都渋谷区渋谷)


金王八幡宮と和算(江戸時代の数学)・江戸時代の天文学についてもっと知りたい方にオススメの小説:

天地明察(てんちめいさつ)上下巻・冲方丁 角川書店



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