回虫のように 4章

  トイレに向かった奈緒の後ろ姿が見えなくなると、郵太郎はポケットから取り出した小瓶をテーブルに置いた。
 この席からは店内のすべてが見渡せた。話し込む二人組、読書する客、手帳に何かを書いている客、コーヒーを淹れている主人、壁のポスター、木目調の床、革張りのソファ、手作りのメニュー表、木彫りの動物、窓の外の通りには歩行者、老人、サラリーマン、自動販売機、雲、看板があった。そのすべてとの関わりを拒絶するような寄生虫がここには確かに存在していた。そしてこの存在は自分の体から出てきた、という事実にあらためてショックを受けた。
 この事実を受け入れるには、もっと正確な情報を知る必要がある、と郵太郎は思った。携帯電話でインターネットにアクセスして、回虫、と単語を入力して検索をした。唐突に回虫の写真が液晶画面に映る。黒い背景に真っ白でつるりとした回虫が丸まっていた。見たくない気持ちを抑えて詳細情報を示すページにアクセスした。
 回虫の成虫は、雄より雌のほうが、体が大きく、雄で十五から二十センチ、雌で二十から三十五センチになるという。口と腸と肛門と生殖器で体は構成されている。子虫から成虫になるまで約三ヶ月で、その寿命は二から四年もある。郵太郎が引き抜いた体長五センチ程度の回虫は、まだ子供なのだろう。子供でよかった、と郵太郎は思った。成虫を肛門から引き抜く様子を想像して鳥肌が立った。
 老医者の言うとおり、回虫は古くから人間に寄生していた。紀元前のギリシャや中国で記録が残っているらしい。日本で広く蔓延したのは、農業に人糞尿を利用しはじめた鎌倉時代だった。戦後でも日本の都市部では三人に一人、農村部では二人に一人が罹患していた。その後、徹底した駆虫対策と衛生観念の普及により、日本での罹患率は一パーセント未満となった。しかし近年では人糞尿を使用した自然食ブームや、衛生管理の行き届いていない発展途上国からの輸入野菜が増加したことで、罹患率が増える可能性が懸念されていた。
 郵太郎は興味本位で、動画検索サイトでも回虫を検索してみた。大量の動画がヒットした。手術場面を撮影した様子の動画を見た。
 中央の手術台に患者が横たわっており、腹が割かれて腸が露出していた。医者はメスで腸を切り裂いた。おびただしい数の回虫が切り口から見えた。医者は大きなピンセットで、スパゲティを取り分けるように回虫を取り出して、脇の台にある銀色のトレーに入れた。トレーのなかで大量の回虫が打ち上げられた魚のように身をよじらせていた。一、二匹が床に落ちて、のたうちまわっていた。動画を最後まで見ることができなかった。
 自分がこうなる可能性はゼロではないのだ、と思うと郵太郎は身震いをした。腹をさすった。何十匹という白く細長い寄生虫がいることを考えると叫びたくなった。だが、一匹であの激しい腹痛だったのだから、もし回虫が大量にいれば、こんなふうにコーヒーをゆっくりと飲んでいるわけにはいかないだろう、と冷静になり、心を落ち着かせた。
 奈緒がトイレから出てくるのが見えた。小瓶をジーンズのポケットにしまおうと手を伸ばしたが、動揺がおさまっておらず、掴みそこねてしまった。小瓶はテーブルを転がり、勢いよく床に落ちてしまった。カラン、と音がして小瓶は転がっていく。近くの客が小瓶に視線を落とした。
 郵太郎はとっさに椅子から立ち上がり、すばやく歩み寄り、小瓶をつかまえた。奈緒が気づいて歩いてきた。すばやく小瓶をポケットに戻す。
 奈緒は郵太郎に近づき、
「何か落としたの?」と言った。
「靴紐を結んだだけだ。俺もトイレに行く」
 と郵太郎は嘘をついて男性用の個室トイレに向かった。トイレの鏡に映った青白い顔を見て、ひどい顔だ、と思った。
 小瓶を取り出して、回虫の様子を見た。まだ生きていた。じっと見つめていると、母親の言葉が浮かんだ。
「それは何かのメッセージを運んでいるのよ。その意味を見出して、肯定的にとらえなさい」
 不可解なことや偶然としか思えないようなことが身に降りかかるたびに母親はそう言った。回虫は何を意味しているのだろうか? 体から抜け出した精神? 魂? あるいはあの老医者の言うように分身なのか。やはり供養する必要があるのか。郵太郎は馬鹿らしくなって考えることを止めた。蟻を踏み潰すような簡単な気持ちでトイレに流してしまえばいいのだ、と思い、小瓶の蓋に手をかけたときに、ドンドンっと乱暴にドアが叩かれた。
「まだですか」
 中年男性の声だった。丁寧な言葉の裏に焦燥感と苛立ちがあった。
 郵太郎はしかたなく小瓶をポケットにしまいドアを出ると、そばに立っていた中年男性は舌打ちをしながら個室へ入っていった。テーブルに戻ると奈緒は、
「大丈夫? 顔色がよくない」
 と言った。郵太郎はうなずき、コーヒーのおかわりを飲もうと提案した。奈緒は店員を呼んで、おかわりをふたつ注文した。すぐに新しいコーヒーカップが運ばれて来た。奈緒は軽くコーヒーに口をつけてから、
「もうひとつ別のプレゼントを渡したい」と言った。
「今度は何をくれるの?」
「明るい未来」奈緒は淡く微笑した。
「どういうこと?」
「占いのプレゼント。過去をみて、未来をみる」
 奈緒はその占いの館を十五時に予約していた。女性のあいだで密かに流行っている店で予約するのが難しいのだと教えてくれた。
 二杯目のコーヒーを飲み終えると、正午を過ぎてきた。お腹が空いた、と奈緒は言って、郵太郎に、
「食べたいものはある?」と訊いた。
「イタリアンにしよう」と郵太郎は答えた。
 喫茶店を出てビルの一階に降り、通りを池袋駅とは反対の方向へ歩いた。カラオケ、居酒屋、ラーメン屋、パチンコ店を横目に、西一番街中央通りを抜ける。小さな道路を渡ると、暗い色の雑居ビルが並びはじめる。ふたりで何度か利用したことのあるイタリアン料理店は、真っ白なビルの一階にあった。
 大きな窯で焼くピザが手頃な値段で食べられるのが好評だった。店内は満席で、ふたりは入口のそばの椅子でしばらく待ち、やがて壁際の席に案内された。郵太郎はマルゲリータピザを、奈緒は明太子スパゲティを注文した。
 マルゲリータピザのひと切れを持ち上げると、とろとろの白いチーズが縁からこぼれた。長くて細い。白く、細長いものばかりに目がついてしまう。
 奈緒は明太子スパゲティをおいしそうに食べた。細長く淡いピンク色の麺がゆっくりと彼女の口のなかへ入っていく。その口元をじっと見ていると、奈緒が、
「何見てるの?」
 と言った。
「麺が奈緒のなかへ入りたがってるみたい」
 郵太郎の言葉を彼女は沈黙で受け止めた。そして、変な表現、と言って、
「ここのベストはこのスパゲティよ。食べたい、と私が強く思ってるから、そんなふうに見えるのかも。とてもおいしい。食べる?」
 と続けた。郵太郎は首を横に振った。あまりにも回虫に似ている。
 食後に紅茶を飲み、しばらくしてから店を出た。十五時まで散歩することにした。劇場通りをぶらぶらと歩き、雑貨屋や服屋を物色し、乱立するラブホテルを抜け、池袋大橋の上から、埼京線や湘南新宿ラインの電車を見たりした。
 十五時が近くなると池袋駅北口に向かった。その占いの館は北口のそばにある小さな喫煙所の向かいのビルの地下一階にあった

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