回虫のように 9章

 翌日は大学の始業式だった。授業はなかったがフットサルサークルの大会が午後からあった。顔を出さないか、と奈緒も誘った。
「用事が終わり次第、行くわ」と彼女は返信をくれた。
 池袋駅からすぐ近くにあるデパートの屋上が会場だった。フットサルコートが三面ある。自動販売機近くのベンチに郵太郎たちのサークルは荷物を置いた。
 フットサルはサッカーのミニチュア版だ。試合中に何度も選手交代ができるので、体力に自信のない初心者にも人気だった。郵太郎もこの理由で大学からフットサルをはじめた。
 スポーツウェアに着替えてフットサル用のシューズに履き替え、試合が行われない人工芝のコートで柔軟をしていると、背中にボールが当たった。振り返ると、ひと学年後輩の佐藤(さとう)春子(はるこ)が立っていた。
「顔がにやついてますね。何かいいことあったんですか?」
 と彼女は言い、
「なんてありふれた言葉なの」
 と自分で自分の言葉に笑った。
 整った顔が笑うとくずれる。喜怒哀楽がはっきりする表情と澄んだ声が彼女の魅力だった。しなやかな体つきは服の上からでもわかる。サークル運営にも献身的で、小柄な体を無駄なくきびきびと動かしている様子は見ていて気持ちがよかった。
 隣にすわって裸足でストレッチをはじめた春子に郵太郎は、
「そんなふうに見える?」とありふれた言葉を返した。
「いつもより顔が明るい気がします。時効を迎えた真犯人はこういう顔をするのかも」
 とまた春子は自分の言葉に笑った。そして閃いたように彼女は手を叩いた。
「昨日、誕生日だ。彼女さんに素敵なプレゼントをもらったんだ。何をもらったんですか?」
「彼女自身」
 春子は眉をひそめて、郵太郎に訊いた。
「具体的には?」
「俺の体から出てきた寄生虫を飲み込んでもらった。深い愛を感じた」
「え?」
 春子は人工芝を撫でていた手を止めた。
「冗談だよ」
「冗談でも気持ち悪いです。とても。ありえない」
「悪かった」
「で、ほんとは何をもらったんですか?」
「占い」
「へんなの」
 と春子は言い、立ち上がって大きく深呼吸を繰り返した。それから足踏みをして人工芝の感触を楽しみ、耳に手を当ててささいな音を聞き取ろうとしていた。春子は背中をそらしながら会話を続けた。
「で、結果は?」
「抱えていた問題が解決するそうだ」
「どんな問題ですか?」
「存在意義がわからない」
「難しいですね」
「と、勃起不全」
「ほんとですか?」
「冗談だよ」
「最低です」
 春子は裸足のままフットサルボールでリフティングをした。ボールを落とす気配はなかった。
「私でよければ解決の手助けをしてあげようと思ったのに。ほんと冗談ばっかり」
 春子はリフティングをやめて足の裏でボールをこねていた。風がすこしあるな、と彼女は言ったが、郵太郎には無風に感じられた。春子は郵太郎に、
「何かプレゼントで欲しいものありますか?」と訊いた。
「試合中に鋭いパスをくれ」と郵太郎は答えた。
 佐藤春子は兄の影響で小学生の頃からサッカーをしていた。女子サッカー部のある私立の中学校へ通い、高校三年間は女子サッカー部の名門で過ごした。神奈川県の代表メンバーに選ばれたことがあった。プロへの誘いもあったが、選手よりもチームのマネジメントに興味があった彼女は大学に進学し、いまは経営学を専攻している。当時大学一年生の彼女をサークルに勧誘したのは郵太郎だった。
 十四時からの大会に、奈緒は遅れて姿を見せた。二試合目の前半が終わったところで、郵太郎はベンチで休憩していた。試合は負けていた。攻めのポジションを任されていたが、ボールは足もとに収まらず、シュートはブロックされ、多くの得点の機会を逃していた。
 ベンチに現れた奈緒の存在は他の何よりも目を引いた。オレンジ色のワンピースのせいだろうか。緑を基調としたフットサル施設でその色は鮮烈だった。敵チームでさえ奈緒をちらちらと見ていた。
「負けてるのね」
 と奈緒はスコアボードを見てから言った。
「一試合目も負けた」
「私が来たからもう大丈夫よ」
 そう言うと奈緒は郵太郎の手をとり自分の腹に当てた。郵太郎はそこにいる回虫を思った。奈緒のなかの温かな闇のなかに自らの分身が横たわっている。俺はまるごと受け入れられてるのだ、と郵太郎はあらためて思った。
 後半の試合開始を合図する笛を審判が吹いた。
 体が軽くなった、とベンチから立ち上がるときに感じた。試合がはじまってすぐに、軽快にステップを踏み、相手チームの選手からわずかに距離を取ると、春子が足もとに鋭く強いパスを出した。ボールは足先に吸い付き、すぐに右足を振り抜くと、理想通りのコースにボールが飛び、ゴールキーパーは反応ができず、ボールはネットを揺らした。郵太郎はその一点に加え、さらに二得点の活躍をして、チームは逆転勝利を収めた。
「言ったとおり」
 と奈緒は得意気に言い、
「何をしてもうまくいく予感があった」
 と郵太郎は思っていることをそのまま言葉にした。
 嘘ではなかった。ボールを受け止めるのも、パスを出すことも、シュートを放つこともすべてが思い通りになった。不安はなかった。そばに寄ってきた春子がそのことを裏付けるように、
「後半、見違えるような動きでしたね。別人みたいでした」と言った。
「こちらは?」
 と、春子を見た奈緒が郵太郎に訊いた。奈緒はサークルに何度か顔を出したことがあるが、春子と会うのは初めてだった。郵太郎は奈緒に、
「佐藤春子、ひとつ後輩」
 と紹介し、春子に、
「西村奈緒、俺の彼女」と言った。
 ふたりは初対面の挨拶をした。奈緒は春子の俊敏なプレーを褒め、春子は奈緒の容姿と手の柔らかさを褒めた。お互いに波長があうのか、すぐに打ち解けた様子だった。
「郵太郎先輩、今日会ったときからずっとにんまりしてたんですよ。訊いたら、彼女さんに素敵なプレゼントをもらったって。彼女自身まるごとって」
 と春子は言った。奈緒は、
「そうよ」と言って微笑した。
「それで具体的な内容を訊いたんですよ。そしたら自分の寄生虫を飲ませたって言うんですよ。深い愛を感じたって。ひどい冗談ですよね。奈緒さんにも普段からそんなこと言うんですか?」
 郵太郎は緊張した。話題を変えようと何かを言おうとしたとき、奈緒が、
「冗談じゃ、ないわ」
 と無邪気に笑う春子に言った。そのまま続けて、
「本当のことよ」と自然に言った。
春子は眉をひそめ、郵太郎を見た。奈緒の考えがわからなかった。郵太郎の冗談に付き合っている、ということなのか。飲み込んだのが寄生虫だと知っているのか。
「私が来てから郵太郎の動きが別人のようになったのが何よりその証拠。彼は分身を飲ませた。私は受け入れたの。好きだから。彼と私はつながってるの。だから私がここへ来て、郵太郎は完全に郵太郎になったの」
「本体と分身が揃ったから?」
 春子は隠しきれない不審な目をしながら言った。
「そう」
「占いをプレゼントしたのは?」
「それもほんとう」
「先輩の存在意義と勃起不全を解決するのも?」
「ほんとう」
 春子は呆然としていた。が、奈緒が郵太郎の冗談に話を合わせているのだろうと判断したのか、春子は微笑して、
「私には、遠い世界です」と言った。
ようやく別の話題に移った。春子は奈緒に恋愛相談をはじめた。いま付き合っている彼氏と別れようか悩んでいる、と春子は語った。奈緒は聞き役にまわり、春子はこれまでの経緯などを詳細に話していた。もし別れることになったら、いい人を紹介してあげると奈緒は言い、ふたりは連絡先を交換していた。
郵太郎のチームはその日の大会を三位で終えることができた。決勝トーナメントでは、これまでずっと敗れてきたサークルに接戦のあげく勝利した。その試合でも郵太郎は攻守にわたって活躍をした。
今夜は祝勝会だ、とサークルのキャプテンが元気よく宣言した。奈緒に参加するかどうかを訊いた。
「もちろん」と奈緒は郵太郎の目を見て答えた。
 いつも利用する池袋駅北口にある居酒屋に向かった。サークルのメンバーが働いていて、奥の座敷を使わせてくれる。ここなら多少騒いでも他の客の迷惑にはならない。酒もつまみも安い。
 郵太郎の隣に奈緒がすわり、テーブルをはさんで彼女の向かいに春子がすわった。大量のビールが運ばれてきたときに携帯電話に着信があった。知らない番号だった。店の外で電話に出ると、女性の声がした。
「ひまわり薬局の安藤と申します。赤井郵太郎さんの携帯電話でお間違いありませんか」
「はい」
「駆虫薬が手に入りました」
「くちゅうやく?」
「寄生虫を駆除する薬です。ご都合のよい日に、お手数ですがこちらに足をお運びください」
「明日の午前中にいきます」
「お待ちしております」
 郵太郎は席に戻った。
 奈緒は後輩に囲まれていた。デートスポット、就活の状況、写真サークルの活動、ふたりの馴れ初め、使用している化粧品、好きなファッションブランド、アルバイト事情などの質問に嫌な顔をせずに、たんたんと答えていた。
 女子は嫉妬の混じった羨望を、男子は下心を含んだ視線を奈緒に向けていた。
 奈緒は後輩に気づかれないようにそっと郵太郎の手を取り、自分の下腹部に当てた。そして怪しげに微笑した。ここに寄生虫がいるのだ、と郵太郎は冷静に思った。彼女の体のなかには生きている俺が横たわっている。きっと身をよじらせているはずだ。後輩たちはそのことを知らない。寄生虫の存在すら信じていないかもしれない。郵太郎はそのように考えながら、後輩が奈緒と会話している様子を見て、気分よく酒を飲んだ。
 顔が赤くなった郵太郎を見て春子は、
「郵便ポストみたいになってますよ」とからかった。
 コース料理が次々とテーブルに並んでいく。枝豆からはじまり、唐揚げ、サラダ、刺身、モツ鍋と続き、最後はうどんが運ばれて来た。白いうどんを後輩が鍋に入れる。スープが少ないのか、うどんが多いのか、スープの表面はぎっしりと細く白いものでいっぱいになった。郵太郎の目には動画サイトで見た腸のなかにうごめく回虫の姿が重なり、食べる気が失せた。
「食べないんですか? おいしいですよ」
 と春子は言い、ちゅるちゅるとうどんを吸った。
「いらないならちょうだい」
 そう言って奈緒は椀に手を伸ばした。音をたてずに、するすると奈緒の口にうどんが入っていく。一匹ずつ入っていく。
 居酒屋の前で解散となった。元気のいい男子を中心に二次会へと向かう連中もいた。ふたりはそこでサークルのメンバーたちと別れた。火照った顔に夜風が当たり、気持ちよかった。そのことを口にすると奈緒は顔をのぞきこみ、
「ほんとに顔が真っ赤」
 と言って笑い、郵太郎の頬に手を当てた。手は冷たかった。その冷たい手で郵太郎の手を握り、上目遣いで奈緒は、
「話があるの」と言った。
街灯の鈍い光が彼女の真剣な顔を照らしていた。
「話? どこで?」と郵太郎は言った。
「あなたのお家」
「いいよ」
 郵太郎は首を縦に振ってから、
「どんな話?」とつけ加えた。
「回虫」と奈緒は静かに言った。
 郵太郎は足を止めて彼女を見た。視線がぶつかる。酔いが覚めた。艷やかな目で彼女は笑っていた。
 行きましょう、と奈緒は言った。

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