回虫のように 10章
「お風呂、借りるわ」
と、奈緒は部屋について靴を脱ぐなりそう言った。酔いが覚めた郵太郎は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、居間のベッドの縁を背もたれにして、彼女がシャワーを浴びる音を聞きながら缶を開けて飲んだ。シャワーの音が止み、浴室のドアの開閉音のあとに、バスタオルで体を拭く音が聞こえた。
「脱衣所にあったから借りた」
奈緒は郵太郎がパジャマがわりに使っていたスウェットの上下を着ていた。郵太郎の隣にすわり、彼女は郵太郎の缶ビールを奪うと、ごくごくと飲みほした。そして、
「あれは回虫、というのね」
と奈緒は言った。続けて、
「あなたの分身のほんとうの名前」と言った。
回虫、という言葉を奈緒は口にしてはいけない、と郵太郎は強く思った。あまりにもかけ離れている存在だ。美しい奈緒の世界に醜い寄生虫は存在してはいけない。だから彼女に回虫だとわからないように侵入させたのだ。
「どこから、出た?」と郵太郎は口にした。
「お風呂に入ってきて。話はそのあと」
脱衣所に向かった。郵太郎は熱いシャワーを頭から浴びた。寄生虫を飲ませるなんて正気の沙汰じゃない。ひどい間違いをしたような気分になった。しかし同時に、回虫が奈緒自身も知らない内側を旅したことに、静かな興奮を覚えた。体から流れ落ちる水滴が排水溝に幾筋にも別れて飲み込まれていく。
体を拭き終えたときに着替えを忘れたことに気づいた。裸のまま居間に着替えを取りに行った。が、その姿を見た奈緒は、
「そのまま、こっちへ来て」と言った。
テーブルには奈緒が着ていたはずのスウェットと下着が脱ぎ捨てられていた。ベッドの奈緒は裸なのだ。彼女が体にかけているブランケットのなかに静かに体を潜りこませた。奈緒は郵太郎に体をぴったりと寄せ、
「今日、ひどい吐き気で目が覚めたの。昨日、観覧車であなたの分身を受け入れてからずっと気持ち悪かった。今朝、トイレで吐いた。そしたらミミズのような生き物がいた」と言った。
「そのまま流したのか?」
奈緒は首を横に振った。
「その場で腰を抜かした。だって動いたのよ。頭だか尻尾をくねりって。あなたに飲み込まされたのは、これだって直観した」
奈緒はふふっと笑った。郵太郎は続きを待った。
「寄生虫について調べたわ。あなたへの憎しみで自分を奮い立たせて。寄生虫を保管して医者に見せること、とあった。そこでまた気づいた。あなたが深夜に栄養ドリンクを飲んでいた理由が。寄生虫を入れてたのね。病院にひとりで行きたい理由もわかった」
「好きな人には知られたくなかった」
「私の体に入れておいて、何を言ってるの」
奈緒はまた笑った。
「私もおなじように小瓶に保管した。トイレの溜まりにいるミミズみたいなのを割箸でつまんだの。そして今日の午前中に病院へ行ってきた。あなたが行った病院へ」
「俺とおなじ病院?」
「確認のために。私の直観が正しいかどうかの」
「汚れた白衣の老医者だった?」
「歯並びも汚かった。あなたと同じ医者よ。勤務表を事前に確認したもの。また回虫か、二日連続とはたまげた、と笑っていたわ。昨日の患者がどんな風貌だったか訊いたら、個人情報の保護なんて頭にないのかしら、男子大学生だとすんなり教えてくれた。そこで回虫の名前の由来も聞いた。体を回る虫、あなたよりあなたの内側に詳しい分身のような存在だ、とあの医者は得意そうに語ったわ。そして持って帰るかどうか訊かれた」
「なんて答えたんだ?」
「持って帰ると、と」
「どうして?」
「あなたに見せるためよ」
彼女はそう言って、自分の腹をぐっと押さえた。おえっと言って背中をすこし丸めた。奈緒の舌の上には、回虫がいた。
郵太郎はとっさに奈緒から体を引き離し、ベッドの脇に立ち上がった。こぶりな舌の上に回虫が体を丸めていた。彼女は口を閉じると、顎を上に向け、目を閉じた。小さい喉仏がわずかに上下した。奈緒がもう一度口を開くと、そこに回虫はいなかった。
「自由に吐くことができるのよ、私。お腹の一点を指で深く押して、背中をちょっと曲げて胃をしぼりあげる。中学のときにできるようになった。そういうダイエット法が流行ったのよ。親にバレてやめてしまったけど」
ふたたび腹に手を当て、おえっと彼女は言った。舌には回虫がいた。
「どうして引いてるの? あなたが飲ませたのに」
郵太郎を見て奈緒はそう言って笑った。回虫を口に含んでいるのに、彼女の発音はおそろしく正確だった。
「まさか寄生虫だなんて。観覧車で何を飲まされたのか、ぜんぜんわからなかった。たくさんの唾液ぐらいしか思いつかなかった。液体の感触じゃなかったけど、他に考えられないじゃない。まさか、寄生虫、だなんて」
奈緒は口を開き、舌を器用に動かして回虫を転がした。ひどく間違っていることが起きていると、郵太郎は感じて、
「すまなかった。自分をまるごと受け止めてほしいからって勝手なことをした」
と言った。奈緒はじっと郵太郎を見つめていた。回虫は舌の上で気持ちよさそうに身をよじらせていた。
「謝らないで。私、うれしいのよ」
「憎んでる、と言ってた」
「憎んだわ。でもよく考えたら、とてもいいことなんじゃないかと思えてきたの」
彼女は郵太郎をベッドへ誘った。隣に横たわった郵太郎に体をぴたりと寄せ、両手を郵太郎の首の後ろにまわして指を組んだ。回虫を口に含んだ奈緒の顔が目の前に近づく。
「あのとき、気分はどうだったの? 回虫を私に飲ませたとき」
奈緒は見せつけるように口のなかで回虫を転がした。正直に郵太郎は答えた。
「まるごと受け入れてくれたことがうれしかったよ。生きる意味が見いだせなくても、生きるのが許されたような気分になれた。充実感があった」
でも、と郵太郎は続けた。
「これは間違ったことだ。後悔してる。吐き出してくれ」
奈緒は微笑して口を閉じた。唇のあいだから回虫の先端がずるずると出てきた。彼女はそれを勢いよく吸って口に戻した。ちゅるり、と音がして、ごくり、と彼女は回虫を飲み込んだ。
「吐き出さないわ。間違ってなんかいないもの」
奈緒は郵太郎に軽く口づけをして次のように言った。
「生きる意味が感じられなくて不安だというあなたの悩みを解決するのが、この回虫なのよ。この回虫はあなた。その回虫を私が受け止めるの。私が支えてあげるのよ。生きる意味なんて、いらないわ。こんなに強く求められて、私いい気分なの。いつも一緒にいられる。いつも強くつながってる。どんなカップルにもこんなことできない。恋人の寄生虫を飲み込むなんて。私たち深く愛しあってるの。回虫はその印なの。生きてるつながりなのよ」
奈緒は郵太郎の首の後ろに回していた手を腹に戻し、そっと押した。おえっと言い、回虫を呼び戻した。ふたたび彼女は郵太郎の首に手を回した。首は満足に動かせない。
「私のなかに回虫がいることで感じるのはうれしい気持ちだけ? どうしてフットサルのプレーが急によくなったの?」と奈緒は訊いた。
「奈緒が来てからすべてがうまくいくような気がした。何かに包まれているような安心感があった」
「うれしさ、安心感、それだけ?」
頭を働かせたが、言葉は出てこなかった。目の前の彼女の口にいる寄生虫の動きに目を奪われてしまう。
「飲み会で私のお腹を触ったときはどう? うれしかった? 安心した?」
郵太郎は目を閉じて思い出した。そして、
「優越感があった。この美しい女性が俺の寄生虫を飲み込んでいる、という事実に誰も気がついていないことに気分がよくなった」
と言った。奈緒は郵太郎の首から手を離した。
「回虫のおかげで、私たちの関係は変化したの。良いほうへ。でもまだひとつだけ見逃してる」
と奈緒は言い、郵太郎の勃起したペニスをそっと掴んで微笑した。
「これは、なに?」と彼女は訊いた。
「さっきから興奮してる。口のなかの回虫を見たときからだ」
「回虫を飲み込んでたときには、こうはならなかったのに」
「理由はたぶんこうだ。笑わないでくれよ」
「言って」
「奈緒の舌と交わる回虫に嫉妬をしてるのかもしれない」
「あなたはあなた自身から私を取り戻そうとしてるのね」
へんなの、と言って奈緒は笑い、静かな声で、
「取り返してみて」と言った。
いつものようにゆっくり交わることはしなかった。激しく彼女の体を求めた。力強く求める郵太郎に奈緒も応えた。何度も彼女は口を開け、回虫を舌で転がした。口づけはしなかった。射精の快感はこれまでと比べることのできないほどだった。
「全然違う」奈緒は息を切らしながら言った。
口には、まだ回虫がいた。気持ち悪い姿だ、と心のなかでつぶやいた。ごくり、と音をたてて奈緒は回虫を飲み込んだ。そして郵太郎に口づけをした。舌が、入ってきた。さっきまで回虫を転がしていた舌だ。
「明日、薬局へ行く」郵太郎は言った。
「駆虫薬を取りに行くのでしょう? 私も連絡が来た」
「一緒に行こう」
「薬は飲むの?」奈緒が訊いた。
「飲むよ。一匹で十分だ。奈緒は?」
「飲むはずないでしょ。あなたが死んじゃうじゃない」
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