回虫のように 8章

 奈緒は赤羽に住んでいた。赤羽駅西口を南へ十五分ほど歩いたところにある丘の中腹に、その新築の鉄筋アパートはある。二階のいちばん奥の部屋を彼女は借りていた。
 玄関を開けると廊下がまっすぐ伸びている。右側には小さなキッチンと冷蔵庫がある。左側にはドアがふたつあり、ひとつはトイレ、ひとつは洗面台と洗濯機と浴室があるスペースに通じている。廊下の突き当りの居間の中央にテーブル、壁際にベッド、その向かいの壁にテレビ台とテレビが置かれていた。テレビの横には本棚があった。
 脚の低いテーブルに差し向かいにすわった。テーブルの上には途中のスーパーで買った缶ビールが二本ある。プルタブを引き抜く。プシュッという音がして奈緒は、
「誕生日プレゼントはあと二時間」
 と言った。ビールを飲むと奈緒は眉間にシワを寄せ、
「味が薄い」
 と言った。おなじ銘柄を飲んでいる郵太郎はそうは思わなかった。
 ビールを飲むたびに彼女の小さな喉仏が上下するのを見て、ビールの波に洗われる回虫を思った。うまいか、味は変わらないよな、と郵太郎は心のなかで分身に向かって問いかけた。
 熱くなってきた、と言って、奈緒はビールを残したままシャワーを浴びた。郵太郎はシャワーを浴びる奈緒の腹のなかにいる回虫をふたたび思った。内側の奈緒はどうなってる? 外側とおなじように美しいのか、と。お前は俺の知らない奈緒を知ることになる、と酔いがまわってきた頭で考えた。
 パジャマ姿の奈緒はタオルを髪に当てながら居間に戻ってきて、
「あなたも浴びたら」と言った。
 郵太郎は簡単にシャワーをすませた。頭に熱い湯を浴びながら、奈緒のなかの小さな闇に消えてゆく回虫の姿を思い出した。口角が自然と上がる。借りたタオルで体を拭き、さっきまで身につけていた服を着た。
 部屋は暗かった。奈緒はベッドに横になり、ブランケットから顔だけ出して郵太郎を見ていた。彼女は、
「こっち」
 と言ってベッドの空いているスペースを叩いた。ブランケットを持ち上げて体をすべりこませた。奈緒は裸だった。彼女の体のやわらかな輪郭が薄闇のなかに浮かび上がる。
「誕生日プレゼントはどうだった?」
 と奈緒は言い、郵太郎は、
「プレゼントは、奈緒自身」と確認のために繰り返した。
「そうよ」
「いままでもらったプレゼントでいちばんうれしい」
 と郵太郎は奈緒の火照った腹に手を置いて言った。
「うれしい」
 と奈緒は言い、頭を郵太郎の胸にうずめ、
「まだ時間はあるのよ」
 と甘い声でささやいた。彼女の顔は、郵太郎の胸、首筋、耳へと移動した。耳元で奈緒は言った。
「私、張り詰めたものが破裂する瞬間が好きなの。風船が限界まで膨らんで破裂したり、だんだんと水位の上がった河川が決壊したりする瞬間に興奮するの。あなたが遊園地で爆発したときも、そう」
 郵太郎は強く奈緒を抱きしめた。それから服を脱いだ。裸の奈緒に触れる。奈緒が裸の郵太郎に触れる。だが勃起することはなかった。奈緒のどんな場所に触れても、奈緒が郵太郎のどんな場所に唇をつけても、勃起することはなかった。こんなことははじめてだった。
 困惑した奈緒は郵太郎に、
「どうして?」と正直に言った。
「わからない」
「いつもの私よ」
抱き合い続けるしかなかった。それでも満足することはできた。回虫の交尾はこのようなものかもしれない、と郵太郎はふと思った。
 ベッドサイドの目覚まし時計がけたたましく鳴った。零時だった。奈緒はアラームを切るとベッドから出てパジャマに着替えた。部屋を最大限に明るくして、
「プレゼントはおしまい。今日は帰って」と郵太郎に言った。
「朝まで一緒にいたい」
「だめ」
「どうして?」
「プレゼントはきっかり二十四時間なの。こうすれば、今日という日が特別な一日になるでしょ」
 奈緒はブランケットを剥ぎ取り、服を集めて郵太郎に渡した。終電まで余裕はあったが、すぐに着替えて帰るように言った。
 服を着てアパートの部屋を出た。別れ際に奈緒は、
「今日のことは忘れないでね。私はあなたをまるごと受け止めたの」と言った。
 赤羽の夜はひんやりとしていた。来た道を引き返し、赤羽駅まで戻った。埼京線で上りの電車に乗り、池袋駅で下車し、アパートまで歩いて帰った。途中の自動販売機の隣のゴミ箱に小瓶を捨てた。

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