回虫のように 11章

 翌朝、奈緒は起床すると冷蔵庫から栄養ドリンクをひと息に飲み干し、空いた小瓶を水で洗い、ティッシュで水気をふきとり、呼び寄せた回虫をなかに入れた。
「腸までいっちゃったら会えないものね」彼女は言った。
奈緒は味が薄いといってトーストに郵太郎の倍ほどバターを塗っていた。
 朝食をすませると奈緒はすぐに回虫を体のなかに入れた。ちゅるり、と飲み込む音がした。食前に回虫を呼び戻して、食後に体へ戻すつもりだと奈緒は語った。
 薬局に着いたのは十一時だった。駆虫薬はひとつの小さな錠剤だった。こちらを飲むだけです、と薬剤師は説明し、黒いビニール袋に薬を入れた。奈緒もおなじように説明を受けて、薬を受け取った。
 スーツの男女に声をかけられたのは、薬局から池袋駅に向かっている途中だった。どこでランチにしようか、とふたりで相談していると、後方から、
「あの、すみません」
 と何度か声をかけられた。大学生をターゲットとした新興宗教やマルチ商法だろうと無視して歩いていたが、男女はしつこくついてきた。郵太郎と奈緒が足を止めたのは男のほうが小走りでふたりの前に出て、手に持っていたペットボトルを見せたからだった。
「これ、知ってるでしょ」
 小太りの男は息を切らしながらそう言った。ペットボトルのなかには回虫がいた。郵太郎のものと比べものにならないほど太く長かった。
「少しお話できませんか。私、こういうものです」
 男が差し出した名刺には、
 寄生虫研究会 東京支部 第三班 リーダー 遠藤(えんどう)わたる
 と記されていた。
「こちらは会員の伊藤(いとう)です」
 伊藤と呼ばれた顔色の悪い女性は少しだけ頭を下げた。遠藤は、
「怪しまれてると思います。突然声をかけて、手には回虫を持っているのですから。しかし我々は宗教勧誘でも詐欺でもないのです。ひとつの研究機関なのです」
 その言葉を信じられない郵太郎は、
「忙しいので」と断った。
しかし、遠藤が、
「回虫で人助けが、できるのです」
 と言うと、奈緒は立ちどまり、話を聞いてみよう、と郵太郎に言った。
 遠藤に連れられて入ったのは郵太郎もよく利用していた喫茶店だった。池袋駅メトロポリタン口から徒歩五分の場所にあり、老夫婦が静かに経営していた。コーヒーとチーズケーキが評判の店だった。
 入口から最も遠いテーブル席を遠藤は選んだ。遠藤の向かいに郵太郎が、伊藤の向かいに奈緒がすわった。
 遠藤はメニュー表を差し出して、
「どうぞ、お好きなものを」と言った。
 郵太郎がコーヒーを選ぶと、他の三人もおなじものになった。
「お時間をとっていただき、たいへんうれしいです」
 と遠藤は名刺をテーブルに載せて、しゃべりはじめた。
「我々、寄生虫研究会は三年前に発足しました。会員は東京を中心に百人程度です。寄生虫に関心を持った人びとが集まり、日々情報交換をしています。世界の寄生虫の分布状況の最新情報や日本寄生虫学会のニュースのチェック、寄生虫の出る漫画、アニメ、映画などをお互いに紹介したり、二ヶ月に一度は目黒にある寄生虫館でオフ会をしたりして活動しています」
 遠藤はいったん言葉を切り、大きく息を吐いてから続けた。
「ただ最近、新しい事業が本格的にはじまることになったのです」
 郵太郎と奈緒の反応を遠藤は待った。奈緒がしかたなく、
「何をすることになったのですか?」
 と質問すると、遠藤は満足し、
「回虫の売買です」と答えた。
郵太郎は思わず、
「買う人がいるんですか?」と言ってしまった。
「ええ」と遠藤は微笑しながら答えた。
 店員がコーヒーを運んできた。コーヒーがそれぞれの手もとに行き渡ると、遠藤は話を再開した。
「発端はある男性会員の趣味でした。回虫の卵を飲みこみ、成虫を産む、という趣味です。興味本位で仲間内に、回虫を売ります、と情報を流したところ、面識のない何人かの女性から手が挙がったのです。そのうちのひとりに彼は直接会って回虫を売りました。その女性は回虫を取り込むことで孤独が癒やされることに気づいたのです。そして一度しか会ったことのないその男性を想い続けることになりました。オフ会でふたたび会うとふたりは意気投合して、付き合い、結婚することになったのです」
 遠藤はコーヒーをズズズと飲み、続けた。
「女性のほうも回虫を育てることを趣味にしました。そしてまた回虫を売ります、と情報を仲間内に出しました。今度は女性の回虫ということも関係しているのか、男性からの注文が殺到しました。購入した中年男性は女性経験がありませんでした。せめて女性の回虫とひとつになろう、と彼は考えたのです。回虫を飲みこむと、孤独感は消え、会ったことのない女性といつも一体感があって幸福だ、と彼は臆面もなく宣伝しました。回虫を育てる夫婦は、今度は、仲間内だけではなく、広く一般に回虫を売ることにしました。注文が殺到しました。性別、世代に関わらずです。夫婦で育てられる回虫には限度があります。供給が間に合わないと感じた夫婦は研究会の会員にも回虫を育てるように要請しました。しかし協力できる会員は少なく、回虫の供給が間に合っていないのが現状なのです。つまりお願いというのは」
 と遠藤はひと呼吸を置いて、
「回虫を育て、産んでほしいのです」と言った。
 テーブルに沈黙が流れた。奈緒は訊いた。
「どうして私達に回虫が出たことを知ってるんですか?」
「駆虫薬の動きを把握しているのです。薬の卸しや薬剤師のなかに会員がいるのです」
 と遠藤は答えた。郵太郎は、
「お断りします」
 と言った。そして席を立とうとした。が、遠藤は懐から回虫の入ったペットボトルを取り出し、わざと音がするようにテーブルに置いた。動くな、という遠藤の意志を感じた。周りの客がこちらを見た。瓶のなかの回虫が体をダイナミックに動かしている。
「生きることにリアリティを感じることができない、という人が現在たいへん多いでのです。資本主義社会ではあらゆるものが商品として消費されます。体は労働力として消費され、心はあらゆる欲望を過剰に刺激する広告にさらされています。さらに他人との過度な競争を強いられ、常に比較されることで精神は消耗されてしまっています。連帯よりも競争なのです。人びとは疲れ、孤独なのです。手触りのあるつながりを求めています。肉体に根ざしたつながりに飢えているのです。回虫はその健全な欲望を満たすことができるのです。回虫は孤独を救う手立てなのです。回虫を取り込むことで自殺願望から抜け出すことができた人もいます。一度回虫の排出のご経験があれば、それほど苦ではないはずです。回虫の卵の手配、出産の時期、排出を促す薬などはこちらで手配します。どうか考え直してもらえないでしょうか」
 遠藤は熱心に言葉を紡いだ。額には汗が滲んでいた。彼は本気で回虫が人間を孤独から救うと考えているように郵太郎には思えた。
「狂気じみてるわ」
 と奈緒が言うと、静かに話を聞いていた不健康そうな顔をした伊藤が、
「おかしいことはなにもありません」
 と口を開き、
「回虫を取り込むことは特別なことではありません。人類は生き延びるために他人の血液、皮膚、骨、臓器を体に取りこみます。どうして回虫がいけないのですか」
 と一息に言った。郵太郎が、
「別の生き物だから、です」
 と答えると伊藤はすぐに次のように言った。
「生きている別の個体を自らの身体に取り込むことに違和感がある、ということでしょう。ですが、腸内環境によいといってビフィズス菌など別の生物を積極的に体内に取り込んでいるじゃないですか。何が違うというのでしょう。見た目が気持ち悪いからですか? 海老や蟹のほうが気持ち悪いと思います。外見なんて、目をつむれば関係ありません。それに人間は生命の進化の最初の最初の段階で、ミトコンドリアなど別の生物の個体を細胞内に取り込むことで環境に適応することができたのです。生きていくために回虫を体内に取り込むことの何がおかしいのでしょうか」
 伊藤は言い終えると肩の力を抜き、テーブル中央のペットボトルに手を伸ばした。キャップをはずし、背筋を伸ばして口をつけ、ペットボトルを逆さまにした。長く太い回虫が伊藤の体に潜っていった。
「回虫を取り込むことなんて、どうってことありません」
 回虫を飲み込むと伊藤の頬の赤みが増した。目に光が宿り、表情が明るくなり、不健康な印象は消えた。遠藤は、
「これは伊藤の回虫なのです」と説明した。
「私はボディビルをしている男性の回虫の卵を購入し、ここまで育てました。体の内側で、その人とのつながりを感じます。体のなかに回虫がいることを実感するだけで幸せです。他に何もいりません。私のような人を増やしたいのです。ぜひご協力ください」
 伊藤はにっこりと笑った。その表情を見て遠藤もにっこりと笑った。
 郵太郎が断ろうとすると、奈緒が先に口を開いた。
「考えさせてください。もしご協力することになれば、こちらからご連絡します」
 遠藤は笑顔を崩さずに奈緒をじっと見てから、
「そうですか。前向きにご検討をお願いします。その際は、名刺の電話番号にご連絡ください。いつでもかまいません。お時間をいただきありがとうございました」
 とあっさりと引き下がった。会計はすませておきます、と遠藤は言い、伊藤と席を立ち、会計をすませると、店を出た。店のドアを閉めるときにふたりは郵太郎たちに向かって軽く会釈をした。
 郵太郎は大きく息を吐き、ぬるいコーヒーを飲んだ。奈緒はトイレに立った。しばらくして戻ってきた奈緒は遠藤がいた席にすわり、
「なんだか湿ってる」
 と言った。彼女は自分のコーヒーを受け皿ごと手もとに引き寄せ、取っ手が右手にくるように百八十度回した。
「彼らに協力するのか」
 郵太郎の言葉に、目を見開いた奈緒は、
「するわけないでしょ。ああでも言わないと引き下がってくれない」
 でも、と奈緒は続けた。
「伊藤さんの気持ちはわかるわ。回虫をお腹に感じると、あなたとつながっている気がしてうれしくなる。他に何もいらない。幸せ。あなたはどう? 私とつながってると思う?」
「もちろん、つながってる。まるごと肯定されてる気分だ。他人の心配をしてる時間はない」
 奈緒はバッグから黒いビニール袋を取り出した。郵太郎に差し出して、
「あげる」と言った。
彼女は駆虫薬を飲むつもりはないのだ。郵太郎は受け取り、袋から駆虫薬を取り出した。直径一センチほどの丸く平べったい錠剤だった。包装紙を剥がして薬を飲み、冷めたコーヒーで胃に流し込んだ。

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