回虫のように 1章

赤井郵太郎(あかいゆうたろう)が出産をしたのは、二十一歳の誕生日だった。
 腹痛で目が覚めたとき、ベッドの枕もとのデジタル時計は三月三十一日の四時過ぎを示していた。まだ夜は明けていない。空気はひんやりとしていた。隣の女性は静かに寝息をたてている。彼女のみずみずしい肌の足が薄闇のなかに白く伸びていた。郵太郎はブランケットを西村奈緒(にしむらなお)にやさしくかけた。
 痛みが激しくなったのはその瞬間だった。思わず声が漏れてしまうほどの激痛だった。とっさに体を折り曲げて、痛みのする部分を右手で握りしめる。何かが体から出ようとしている。奈緒を起こさないようにベッドから出て、トイレに向かうが、体がいつものように動かない。足が重く、歩幅が短くなる。こめかみが熱くなり、汗がにじむ。ただの腹痛ではなかった。
 リビングのドアを開き、明かりを点ける。光が目に沁みる。玄関に向かって短い廊下が伸びている。左側に手前から、洗面台、冷蔵庫、キッチン、下駄箱の順で並び、右側にトイレと浴室へのドアがふたつある。トイレのドアを開く前に、洗面台の鏡に映る自分の姿を見た。パンツを一枚だけ身につけた男がいる。明日で大学四年生となる男の体に無駄な脂肪はなかった。中学と高校でサッカー部に所属し、厳しいトレーニングをくぐり抜けてきたからだった。鏡のなかの男は背中を丸め、腹を握りしめて、笑っていた。あまりの痛さに笑っていたのだ。
 トイレに入り、パンツを下げて便座にすわり、腹に力を入れた。だが、何も出ない。痛みは鋭さを増しながらゆっくりと体内を移動している。声が漏れる。両手で皮膚を握り締めて痛みをごまかす。こめかみから一筋の汗が顎の先に流れたとき、ふっと痛みが消え、肛門に異物を感じた。
 いきんだ。しかし、すべては出なかった。いつもの便とは違う。トイレットペーパーで拭き取ろうとしたが、弾力があり、拭き取ることはできなかった。つるりとして、つまむことができた。便なら形が崩れるはずだ。顎の先端から汗が床に落ちた。便ではないものが肛門にあるのだ。深呼吸をして覚悟を決めると、それを引き抜いた。
 白いミミズ、というのが第一印象だった。五、六センチ程度の長さだった。便はまったくついていない。寄生虫だ、という直観が体を貫いた。寄生虫を肛門から引き抜いたのだ、と思うと呆然とした。じっと見つめると、寄生虫は、ゆっくりと、その身をよじらせた。指先に虫の動きが伝わる。夢ではなく、現実なのだ。
 トイレットペーパーごと水に流そうとしたが、思い直してその手を止めた。寄生虫が出たときの正しい対処法があるはずだ。調べるためにはベッドにある携帯電話が必要だった。ミミズのような寄生虫をトイレットペーパーごと床に置くと、トイレを出てベッドに戻った。枕もとにあった携帯電話にそっと手を伸ばすと、
「黙っていなくならないで。約束を破りたくないの」
 と奈緒が甘い声で言った。郵太郎は静かに答えた。
「トイレだよ。まだ四時だ。寝なよ」
「すぐに戻ってくる?」
「すぐだ」
「携帯電話を持ってトイレで何するの?」
「調べ物」
「ひとりでエッチなこと、しないでよ。私がいるのに」
「しない。すぐに戻る」
「もうプレゼントは、はじまってるんだから」
 郵太郎は奈緒の頭をそっと撫でた。彼女は瞳を閉じた。
 トイレに戻り、便座にすわり、寄生虫の対処法をインターネットで調べた。寄生虫が出た場合、医療機関で効果的な対処をするには種の特定が必要であるため、寄生虫を保管するように、と記事は伝えていた。記事は古く、保管容器の例として、いまは見かけないカメラの白いフィルムケースを挙げていた。
 トイレから出て、郵太郎は冷蔵庫から栄養ドリンクの小瓶を取り出して、一気に飲んだ。トイレに戻り、床にいる寄生虫をトイレットペーパー越しにつかみ、小瓶のなかに入れた。郵太郎は深く溜息をついた。
 コンコンとドアがノックされたのはそのときだった。郵太郎は驚き、小瓶は手から滑り落ちた。床に落ちてカランと乾いた音がした。
「私もトイレ」
 ドアの向こうから奈緒の覚醒していない声がした。トイレを終えたかのようにごまかすために、レバーをひねり水を流した。小瓶の存在を奈緒に知られたくなかった。虫ぜんたいが嫌いな奈緒に寄生虫なんて見せたら大声で叫んでしまう。郵太郎もまだ寄生虫が出たという非現実的な事実を他人に話せる準備はできていなかった。小瓶が携帯電話で隠れるように、右手でふたつを握った。
 ドアを開けると、髪がぼさぼさの奈緒が下着姿で立っていた。郵太郎はいつもの癖でドアを閉めるとトイレの明かりのスイッチをオフにした。奈緒は、
「さっきの何の音? 何か落としたの?」
と訊いた。
「携帯電話を床に落としたんだ」
「もっと乾いた音だった」
「そうかな」
「冷蔵庫から何を取り出したの? 扉の開く音がしたけど」
「栄養ドリンク」
「あれだけしたから栄養が足りなくなったの? それともいまからするために飲んだの?」
「どっちだと思う?」
「今日はあなたの誕生日よ。でもすぐに決めて。私、トイレしたいのよ」
「すればいい」
「私、我慢しながらするのが好きなの」
 と奈緒は言った。
 彼女を抱くような気分になれない郵太郎はトイレのドアを開き、スイッチを押して明かりを点けてやった。奈緒はドアを閉める直前に、隙間から、
「ねえ、何か隠してる? どうして右手ばかりそんなに見てるの」
 と言った。とっさに言葉が思いつかなかった。奈緒は続けた。
「どんなに隠し事が嫌いか知ってるでしょ。あるなら言ってよ」
「ないよ」
 奈緒は郵太郎の目を見てから、わずかに残った隙間を閉じた。
 彼氏と付き合っていた二年間のうち、一年ほど二股をかけられていたことに気づかなかった、とはじめて会ったときに奈緒は言った。だから彼女は隠し事をされるのを嫌った。
 リビングに戻り、寄生虫の入った小瓶の隠し場所を探した。クローゼットにあるダッフルコートの内ポケットに決めた。ここなら見つかることはない。ポケットに入れる前に、薄闇のなかで小瓶のなかの寄生虫を見つめると、それはゆっくりと体を動かした。気持ち悪い。間違った世界に入り込んだようだ。ベッドに戻り、ブランケットをかぶり、目をつむった。戻ってきた奈緒は郵太郎の横顔にひんやりとした掌を重ねて、
「する?」
 と訊いた。郵太郎は首を横に振ったが、奈緒は、
「プレゼントはもうはじまってるの」
 とささやいてから口づけをした。舌が潜ってくる。その動きが寄生虫に思えた。郵太郎は顔を離して言った。
「いまはそういう気分じゃない。寝よう」
「わかった。いつものようにして」
 奈緒は体を寄せて、郵太郎の胸に顔をつけた。頭を撫でられると安心して寝られるの、とはじめて一緒に寝たときに彼女は言った。静かな寝息が聞こえる。
 郵太郎は眠りに落ちるまでに、今日という一日を振り返った。
「誕生日プレゼントは零時に届ける。きっかりよ。そのときはアパートにいて」
 と奈緒が言ったのは誕生日の三日前だった。
 四時間前が、その零時だった。きっかり零時に部屋のチャイムが鳴った。ドアを開けると、アパートの廊下に奈緒が立っていた。少しサイズの大きいウールの青いセーターにチノパンを合わせ、白いスニーカーを履き、肩からエメラルドグリーンのこぶりな革のバッグをさげていた。すらりと背の高い綺麗な女性、と彼女を見るたびに思う。凛とした表情と切れ長の目で冷たそうに思われることが多いが、笑うと幼い子供のようにあどけない。奈緒の笑顔が好きだった。廊下のくすんだ光のもとでも彼女は充分に魅力的だった。
 奈緒は淡く微笑して言った。
「お誕生日おめでとう」
「ありがとう」
 彼女を部屋に通すためにドアを押さえたが、奈緒は立ったまま動かず郵太郎を見つめていた。彼女は真面目な口調で言った。
「聞かないの?」
「何を?」
「誕生日プレゼント」
「教えて」
 ひと呼吸置いて奈緒は、
「誕生日プレゼントは、私」
 と答えた。
「どういうこと?」
「二十四時間、私がそばにいる。それがプレゼント。うれしい?」
「プレゼントは開けてみないとわからない」
「ばかばかしいと思ったでしょ。でも本気よ。一度やってみたかったの」
 高校まで中距離の陸上選手だった奈緒はするりと軽い身のこなしで部屋へ入ってきた。それから彼女が用意した赤ワインを飲んだ。軽く酔うと奈緒は身を寄せて、
「もうお風呂はすませてきたの」
 とささやいた。郵太郎はそのまま彼女をベッドで抱いた。終わると汗がまだひいていない郵太郎の胸に奈緒は頭をつけた。眠りたいのだ。ゆっくりと頭を撫でると彼女は眠った。静かな寝息を聞いているうちに郵太郎も眠りに落ちた。
 そして腹痛で目が覚め、現実のなかで寄生虫を出した。その寄生虫はダッフルコートの内ポケットにある小瓶のなかに確かに存在している。肛門に残る寄生虫の感触を忘れようと、郵太郎は強く目を閉じた。

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