回虫のように 3章

 奈緒とはじめて会った夜は激しい雨の降る、九月の最初の金曜日だった。前日に郵太郎が所属するフットサルサークルの学年がひとつ上の吉田(よしだ)健(たける)から連絡を受け、翌日の午後の予定を空けておくように、と強引に言われた。
 池袋駅東口近くの雑居ビルにあるその居酒屋に、集合時間である一九時の十分前に着くと、すでにテーブルには熊のように体の大きい吉田がいた。郵太郎が席にすわると吉田は、
「ぴったり十分前だ」
 と満足するように言った。
「珍しいですね。いつも時間ギリギリなのに。何か話すことがあるんですか?」
「今日来る女は俺が惚れてる女だ。あと少しでうまくいく。食事に誘ったらサークルの後輩の相談に乗ってほしいと言ってきた。女がふたりになる。男が足りない。頭数をそろえるのにお前を呼んだ」
「どうして俺なんですか?」
「言うこと聞くやつなら誰でもよかった。連絡帳の『あ』行の最初がお前だった」
「先輩とその女性の仲が深まるように立ち回れってことですか」
「そうだ。話がはやい。もちろん俺のおごりだ。うまくいけば、就職の面倒を見てやる」
「うまくいかなかったら?」
「もっといい女を見つけて俺に紹介しろ」
 吉田は太い腕を組み、大きく口を開けて笑った。彼の父親は名の知れた保険会社の人事部長で、歳の離れた兄は人材派遣会社で頭角をあらわしていた。吉田は家族のコネを使って、就職活動に困っている友人を何人か助けていた。ぶっきらぼうな言葉遣いだが、面倒見のいい性分だった。
 時間通りにふたりの女性が来た。吉田の惚れている女性は大村(おおむら)倫子(みちこ)という名前だった。小柄で愛想のいい女性だった。その大村が連れてきた後輩が西村奈緒だった。奈緒はタイトなジーンズに足を包み、白い長袖シャツに辛子色のトレンチコートを着て、黒い傘とこぶりなバッグを持っていた。
 初対面の挨拶をすませ、人数分のビールを郵太郎は店員に注文した。ビールが届き、乾杯を終えると吉田はさっそく、
「相談事って?」
 と切り出した。大村は明るい声で答えた。
「この子のこと。写真サークルの後輩。撮影センスもあるし、被写体としても優秀。きれいでしょ」
「美人だ。倫子にはかなわないけど」
 と吉田は堂々と言った。大村はその言葉を正面から受け止め、ばかね、と頬を赤らめた。自分が何もしなくても今日のふたりはうまくいくだろう、と郵太郎は思った。
 この子はね、と大村は奈緒のこぶりな肩に手を置いて言った。
「二週間前に別れちゃったのよ。ひどい振られかたをして。ずっと浮気されてたの」
「それはひどい。俺は浮気なんて絶対にしない」
 と吉田は大村の目を見て言った。照れながら大村は、
「だからいい人がいたら、この子に紹介してくれない?」
 と言うと吉田は郵太郎の肩を力強く叩き、
「ちょうどいいのがいる。フットサルサークルの後輩で、いまは彼女も、好きな女もいない。浮気もしたことがない」
 吉田の言葉は事実だった。それで相談が終わったかのように吉田と大村は話題を変えた。最近見た映画、新しくできたカフェ、気になる洋服、内定者同士の集まりについての情報交換など、ふたりの話題は尽きなかった。吉田と大村は会話が途切れると、郵太郎と奈緒に話を振って意見を求めた。吉田がなるべく得意に話せる話題の糸口となるように意識して答えた。吉田も大村も互いに目を見つめ合いながら楽しそうにしゃべっていた。
二時間が経ち、場所を変えることになった。歩いてすぐのビルにあるアイリッシュバーだった。吉田の行きつけの店だった。吉田と大村は小さなソファにすわり、郵太郎と奈緒は少し離れたところにあるスツールに小さな丸テーブルをはさんですわった。カウンターで注文し、そこでドリンクを受け取るシステムだった。郵太郎はバーテンからビールとカクテルを受け取ると、テーブルまで運んだ。頬が触れるほど身を寄せ合いながら談笑している吉田と大村を横目に奈緒は、
「私たち、ただの会話の小道具ね」
 と言った。大村は吉田に会う口実に奈緒を利用したのだろう、と郵太郎は思った。彼女の言葉に郵太郎は、
「脇役ぐらいは貢献したよ。主人公とヒロインの幸せのために」
 と言ったが、奈緒は不服そうに首を傾けた。白い頬は赤らんでいた。
「脇役は嫌よ。私も幸せになりたいのに」
「どんなときが、幸せ?」
「強く求めて、強く求められたとき」と奈緒は答えて、「あなたは?」と付け加えた。
とっさには言葉が思い浮かばなかった。すぐに答えることのできる奈緒を羨んだ。郵太郎は適当な嘘をついた。
「朝に目覚めたら、美しい女性がトーストと目玉焼きを用意してくれていたとき」
「嘘つき」
 と奈緒はカクテルに口をつけて淡く微笑した。郵太郎は、
「嘘かどうかはわからない。まだそんな場面に出くわしたことはないから」と言った。
「ふーん」
 と奈緒は相槌を打ちながら視線を吉田と大村に向けた。
 天井からぶら下がった薄型テレビではイギリスのサッカーの試合が映っていた。ゴールが決まり、得点をした選手がピッチから飛び出し、観客席の最前列の熱狂的なサポーターと抱擁していた。
「今日はありがとな」
 ふと気づくと吉田と大村が腕を組んでテーブルの脇に立っていた。そして、
「俺たちは場所を変える」
 と言い、大村は奈緒に向かって、
「また遊びましょ」
 と笑顔で小さく手を振った。
 吉田は大村の腰に手を当て、お互いを見つめ合いながら、ドアを開けて消えた。ドアが閉まると奈緒は、
「あのふたり、うまくいくと思う?」
 と訊いた。郵太郎は、
「体だけの関係に落ち着くと思う」
 と答えた。
「どうして?」
「吉田先輩は頑固だ。不機嫌になると気持ちを切り替えるのに時間がかかる。規律に厳しくて、後輩が集合時間の十分前にそろってないと怒りはじめる人だ。そのくせ自分の不始末は棚にあげる。大村さんもわがままな人に見えた。レモンサワーと生レモンサワーを聞き間違えただけで店員をにらみつけていたし、自分に関係ない話題だと興味も持たずに飽きているのがはっきりと顔に出てた。どちらもわがままだ。きっと三日と続かない」
「よく見ているのね」
「小さい頃の夢が名探偵だったんだ」
「いまの夢は?」
「ない。いま探してる」
 テーブルについた細い肘の先の、ほっそりとした掌に小さな顎を載せた奈緒は、そうなんだ、と相槌をしてから、
「私の夢も聞いて」
 と言った。
「どんな夢?」
「腰を抱いてもらいながら、あのドアから出たい」
 郵太郎は言われたとおりにすることにした。彼女の腰に手を添え、店のドアを出て階段を上り、地上へ出た。雨はあがっていたが、星は雲に覆われて見えない。
「夜風に当たりながら、少し歩いて、静かなところでお話をしたい」
 と奈緒は言った。二十分歩けばアパートがあると言うと、行きましょう、と彼女は答えた。
 アパートに着くと酔いが多少覚めていた。小さなテーブルに差し向かいにすわり、ウイスキーの水割りをふたりで飲むことにした。奈緒はプリクラが趣味だということや、写真サークルの活動について教えてくれた。そして別れた男の話をした。同じ大学のドイツ語クラスで知り合った一歳上の男だった。浮気相手は美容師の女性だったそうだ。彼氏とその女性がラブホテルに入るのを、奈緒の友人が見かけた。そのことを問い詰めると、彼氏はあっさりと白状した。一年も二股をしていたこと、これからは美容師と付き合うことを告げて、彼氏は奈緒のもとを去った。しばらくぼうっと彼女は過ごしていた。心配したサークルの先輩である大村が声をかけて今日にいたる、と奈緒は語った。
 しばらく静かに飲んでいると、奈緒が、
「大村さんと吉田さんはいま何をしてると思う?」
 と訊いた。二十三時だった。
「裸で抱き合ってるんじゃないか」
 と言うと奈緒は、
「ずるい」
 と言い、じっと郵太郎を見つめ、テーブルにそっと手をのせた。
 その手に自分の手を重ねるべきだと郵太郎は思った。そして彼女の手に自分の手を重ねた。
「電気は消して」
と奈緒は言った。部屋を暗くして、ふたりはベッドでゆっくりと交わった。頭を撫でてもらいながら寝たい、と彼女は言った。郵太郎は頭を撫でてやった。
 朝に目覚めると、トーストの焼けた匂いがした。ベッドから起き上がると、リビングのテーブルに朝食を用意している奈緒が、
「幸せ?」
 と訊いた。郵太郎は、
「とても」と答えた。
 それから奈緒と何度かデートを重ねた。映画館、動物園、美術館、商業施設へ行った。夜に長い電話をする日もあった。会う日の夜は郵太郎のアパートで過ごすことが多かった。奈緒は必ず朝にトーストを用意した。ある朝に奈緒は、
「私たち付き合ってるの?」
 と言った。郵太郎はうなずいた。
「言葉にして」と奈緒は言った。
「好きだ」
 郵太郎がその言葉を言った日が、半年前の九月の最終日だった。

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