回虫のように 14章

 池袋駅北口から十分程度歩き、真っ白なビルの一階にあるイタリアン料理店に入った。待つことなく、壁際のテーブルに案内された。
 郵太郎は奈緒とおなじ明太子スパゲティを注文した。
 注文を受けた店員がテーブルを離れると、奈緒はトートバッグから小袋を出して郵太郎に渡し、
「食べる前に、吐いて」と言った。
 袋のなかには、奈緒が愛用していた小瓶と、掌サイズの網目の細かいステンレス製のザルが入っていた。ザルで吐瀉物を濾して、回虫を取り出せ、ということだろう。
「慣れれば簡単よ」と奈緒は言った。
 個室トイレに入り、小瓶の蓋を開けて、タンクの縁に載せた。ザルを口の近くに用意し、右手で舌の根を押した。何度か汚い声が出て、涙が目に浮かんだ。胃が縮みあがり、郵太郎は吐いた。朝食の卵かけごはんと目玉焼きとサラダがドロドロに混じったすっぱい液体がザルから少しこぼれてしまった。
 回虫はいなかった。もう一度吐いたが回虫は出てこなかった。
「お客様、大丈夫ですか」
 男性の声とともにドアを叩く音がした。店内には男性トイレがひとつしかない。順番を待っていた人が心配して店員を呼んだのだろう。
「大丈夫です」
 と郵太郎が答えると、強烈な吐き気に襲われて、吐いた。その吐瀉物のなかに回虫がいた。体がひとまわり縮んだような気がした。同時に、深い欠落感を抱いた。トイレを流し、備え付けの小さな洗面台でザルと寄生虫を洗い、ザルはトイレットペーパーで水気を拭き取り、回虫は小瓶に入れた。ザルと小瓶を袋に入れて、郵太郎は個室トイレを出た。
 扉の外にいた店員に問題ないことを伝え、テーブルに戻った。セットのサラダを食べていた奈緒は、
「トイレに流してないでしょうね」と言った。
「あたりまえだ」
「気分はどう?」
「君が言ったとおりだ」
「寂しいでしょ」
 郵太郎はうなずいた。いますぐにでも回虫を飲みこみたかった。背中が丸まり、卑屈な気持ちにまでなった。明太子スパゲティはおいしかったが、濃厚な味が評判のわりには味が薄かった。郵太郎がそう言うと、
「そうかしら、濃厚だったけど」と彼女は答えた。
 食事を終えるとすぐに郵太郎は小袋から小瓶を取り出し、逆さまにして回虫を吸い出した。舌でぺろりと舐めてから飲み込んだ。胃に回虫が着地すると郵太郎はほっとした。その仕草をずっと見つめていた奈緒に郵太郎は、
「うらやましい?」
 と訊いた。彼女は小さくうなずき、
「二週間が過ぎたら、私の番よ」と言った。
 食事を終えるとふたりは別れた。郵太郎は夕方からフットサルの練習試合があり、奈緒はバイトが入っていた。別れ際、奈緒は寂しそうにしていた。さよなら、と言った彼女の視線は、郵太郎の目ではなく腹に向けられていた。
 アパートへ戻ると、しばらくしていなかった掃除をしたくなった。窓を全開にし、散らばった雑誌や小物を整理し、掃除機をかけた。布団をベランダに干した。浴槽に専用の洗剤を振りまき、スポンジで汚れを落とした。洗面台やトイレなどの水回りも、専用のシートで丁寧に拭いた。キッチンのシンクもこすると小気味のよい音がするほどに磨いた。狭い玄関も小さな箒で砂や埃を外に払った。
 フットサルの試合に必要な用意をリュックに詰めて、家を出た。高田馬場にある区営の体育館で都内の三つの大学のフットサルサークルが集まり、練習試合をすることになっていた。大会の成績がいつも同程度のサークルだった。サークルに加入したばかりの新入生の実力を確かめる場でもあった。
 郵太郎には一試合目の試合開始直後から、違和感があった。他の選手ができの悪いロボットのように思えた。体の動かしかたはぎこちなく、どのようなプレーをしようとしているかがすぐにわかった。止まったように見えるボールを受け止めることはなんら難しくなく、できの悪いロボットのような味方の動きに合わせて、正確にパスをすることができた。シュートは簡単にゴールネットを揺らした。
「動きが違いますね。ドーピングでもしたんですか?」
 と後輩の春子は練習試合の合間に郵太郎に訊ねた。
「奈緒の寄生虫を飲んだんだ」
 と郵太郎が返答すると、大の字に寝転んで天井を見ていた春子は苦笑し、
「今度は先輩が飲んだんですか。それで力が漲ってるんですか」
「そう」
 春子は呆れた顔をした。えいやっと声を出した彼女は背中をのけぞり、ブリッジをした。
「子供の頃、好きな女の子をからかうタイプだったでしょ」
 と春子が言うと、郵太郎は、
「いまも、そうかもしれない」と言って笑った。
 他の試合でも郵太郎はできの悪いロボットを相手に活躍した。相手のチャンスを潰し、ドリブルでボールを運び、ゴールキーパーの体勢を確認して、シュートを打ち、得点を重ねた。味方にパスすることも減った。試合には大差をつけて勝つことができた。
 だが、春子は試合内容に満足していなかった。彼女は練習試合がすべて終わると、
「どうしてパスを出さないんですか?」と郵太郎に詰め寄った。
「俺がボールを持ってるほうが得点に近づく。勝ったからいいだろ」
「そういうの感じ悪いです。いままでパスの連携で相手を翻弄する戦術だったじゃないですか。それに最後のなんですか。相手の選手を突き飛ばしたりして。ああいうの止めてください。雰囲気悪くなります」
「あっちが文句言ってきたんだろ」
「先輩が挑発するようなプレーをするからでしょ」
「お前だけだぞ、文句言ってくるの。他の奴らは俺にパスをするし、プレーを応援してくれてる。勝ったからいいだろ」
「チームメイトを頼ることはしないんですか」
「頼らなくても勝てるようになったんだよ」
「人が変わったみたい」
 と春子は言い、まとめてある荷物を肩に背負い、
「ひとりよがりのプレーを続けるなら、いっしょにフットサルしたくないです」
 とぼそっと口にすると、すたすたと駅のほうへ帰っていった。
 ひとりじゃない、と郵太郎は腹をさすって思った。ここには俺と奈緒の化身である回虫がいる。誰かと連携したり、お互いをわざわざ受け入れ合うことを求めるお前たちは違うんだよ、と春子の小さくなる背中を見ながら郵太郎は思った。
 サークルの飲み会が開かれる様子だったが、郵太郎はひとりでアパートに戻った。
 帰宅するとシャワーを浴び、晩御飯の用意をして、トイレで回虫を吐いた。スポーツドリンクの白い液体に混じって、回虫はスムーズに出てきた。奈緒が使っていた小瓶に入れた。小瓶に貼ってあるプリクラが回虫の視界を塞いでいたので、シールを剥がして捨てた。小瓶のなかで回虫は窮屈そうに身を捩らせていた。惣菜が入っていた透明の容器をゴミ袋から取り出し、水で洗い、ふきんで水気を拭き取り、そこに回虫を移動させた。のびのびと回虫は体を伸ばした。
 回虫を眺めながらミートスパゲティを食べた。目を離したくなかった。何かを求めるように回虫は体の先端を上下に揺らしたので、ミートソースを少しかけてやった。回虫は激しく体を上下した。苦しんでいる様子はなく、むしろ喜んでいるように見えた。
 食べ終わるとすぐに回虫を飲み込んだ。喉を通る感触が気持ちよかった。食器を片付けると眠気に襲われた。いつもより体に疲れが溜まっていた。奈緒から、調子はどう、という連絡が来ている通知が携帯電話にあったが、返信もせずに二十二時になる前に郵太郎はベッドに入った。
 胃で、のそり、と回虫が動く気配がした。人間のことをよく知る生物と一体になっていることに安心して、郵太郎は新しい一日を終えた。
 回虫と一体になった生活はすぐに過ぎていった。
 朝は回虫の蠢きで、心地よく目覚めることができた。夢をまったく見ないほどの快眠だった。テレビでは朝の冷気に気をつけるように天気予報士が注意していたが、寒さを感じることはなかった。
 朝食を用意して、回虫を吐き出した。そのうちに指を口に入れなくても吐けるようになった。朝食を終えると回虫を飲み込んだ。
 大学の講義では、前方の席にすわるようにした。講師の声が聞き取りづらいときがあるからだった。
 居酒屋のバイトでは悪質なクレーマーを退治したことで正社員に一目置かれる存在になった。郵太郎としてはなぜ評価されたのかがわからなかった。いくら怒号や罵声を浴びせられても、幼い子供が描いた絵のような人間の前でただ立っているだけだったからだ。時給アップを検討する、と正社員の男性は言った。
 家で食事をするたびに、回虫にさまざまな汁物をかけてみたが、ミートソースのときのように体を激しく反応させることはなかったので、一日に必ず一度はミートスパゲティを食べた。ケチャップを何重にもかけて食べた。
 回虫との意思疎通ができるようになった。翌朝に起床したい時間を、寝る前に回虫に伝えると、その時間に回虫は身をよじらせて覚醒に導いてくれた。
 奈緒がデートを誘う頻度が多くなった。連絡なしに夜中にアパートへ来て、呼び鈴を鳴らすこともあった。が、深い眠りに落ちていて気づかなかった。
 会うたびに奈緒は回虫の心配をした。トイレに流してないか、弱ってないか、体の大きさはどうかなどを不安そうに訊いた。その顔にはニキビが増えていた。夜はあまり眠れていないらしい。
 写真サークルで被写体に選ばれることが少なくなったと奈緒は言った。
「あったはずの独立した世界観、完結した世界観がなくなってしまってますね」と、ある後輩に指摘されたそうだ。
 奈緒は郵太郎に抱かれたがった。回虫を口に含むことができるからだ。郵太郎は服を脱ぐ前に回虫を吐き出し、奈緒に渡した。すぐに彼女は口に含んで安堵の表情を浮かべた。彼女が舌で転がす回虫を見ると郵太郎は勃起した。ふたりは可能な限りくちづけをしながら交わった。
 奈緒に回虫を渡す日もそんなふうにセックスをした。奈緒は性行為が終わると郵太郎に確認してから回虫を飲みこみ、
「そう、この感じ。待っていたのはこの感じ」
 と言い、腹を抱えて体を丸めた。その目には涙さえ浮かんでいた。郵太郎は、
「どうした?」と訊いた。
「うれしいのよ」
「回虫を飲むことが?」
 奈緒は頭を小さく縦に振った。
「やっと私は私に戻れた。あなたもきっと私の気持ちがわかるわ」
「たった二週間だろ。おおげさだ」
 郵太郎の言葉に奈緒は淡く微笑した。それから丸めた体を限界まで反らせ、彼女は立ち上がった。顎をピンと上に向けて、髪をかき上げた奈緒は怖れているものなどないように見えた。
 作りたての傷一つない精巧な人形のような奈緒の美しさが、その瞬間に消えたように思えた。そのかわりに、肌の小さなシミ、わずかに左右非対称の顔のつくりが目につき、香水に混じった奈緒自身の匂いを感じた。
「回虫は二週間後に渡す」
 服を身につけた奈緒はそう言って、喫茶店のバイトを理由に、アパートを出ていった。

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