回虫のように 5章
狭く埃っぽいエレベーターに乗り、奈緒はB1のボタンを押した。扉が開くと、占いの館の看板が目に入った。看板には大きな金色の文字で、
『ホウオウがあなたの生と死を導きます』
と書いてあった。入口のドアには、鳳凰が描かれたステンドグラスがはめ込まれていた。ドアを開くとすぐに受付があり、カウンターのなかで中年女性が煙草を吸っていた。鳳凰の描かれた赤い袈裟と、赤いターバンを身につけていた。
奈緒の予約を確認すると、その女性は煙を大きく吐き、灰皿に煙草を押し付け、
「こっち」
と言って部屋の奥へと案内した。店内は赤い間接照明のわずかな光のみで、取り出したばかりの心臓のように不気味だった。床、壁、天井のすべてに鳳凰が描かれ、廊下の途中には精巧な鳳凰の首が台の上にあった。
案内された薄暗い部屋の中央には磨き上げられたステンレスのテーブルと椅子が二脚あり、それらは鳳凰をモチーフにした大小のオブジェ、屏風、壺、タペストリー、絵などに囲まれていた。天井からも鳳凰の模型がいくつも吊り下げられていた。
郵太郎と奈緒がテーブルをはさみ、向き合うように椅子にすわると、そばに立った中年女性は言った。
「で、どっちがやるの?」
「私です」と奈緒は答えた。
「三十分三千円」
奈緒から受け取った千円札を中年女性は半分に折り曲げて胸のなかに差しこみ、
「じゃ、来て」と言った。
「占いを受けるのは俺じゃないのか?」郵太郎は奈緒に訊いた。
彼女は微笑して、
「ちょっと待ってて」
と言い、中年女性といっしょに部屋を出た。扉を閉めるときに中年女性は郵太郎に言った。
「待ってるあいだに数えて」
「何をですか?」
「あなたを見つめている眼の数」
中年女性はククッと笑ってからバタンッと音を立ててドアを閉めた。親しみのない沈黙に包まれた。もう一度耳の奥にククッという音が蘇ると、その瞬間に鳳凰の視線を感じた。空調が作動し、天井の鳳凰がわずかに揺れ始めた。上下左右に無数の目があった。そのどれもが郵太郎の心の動きを見透かしているような視線を放っていた。体が緊張した。
気を紛らわせるために携帯電話でニュースサイトでもチェックしようとしたが、圏外だった。どこからか、カラカラ、という乾いた音が聞こえる。
他にすることが思い浮かばず、ポケットから寄生虫の入った小瓶を取り出してテーブルに置いた。回虫はゆっくりと身を動かしていた。小瓶を持ち上げて、天井の光に透かせて回虫の動きをじっと見つめた。口と腸と肛門と生殖器だけのシンプルな体を恥ずかしげもなく晒していた。その姿に見入ってしまっている自分に、しばらくして郵太郎は気づいた。我に返ると、鳳凰の視線は消えていた。回虫がすべての鳳凰の視線を受け止めている、と郵太郎は思った。まわりからの視線にびくびくしていた自分を情けなく思った。
ドアの外で足音がした。もっと眺めていたい気持ちを惜しみながら小瓶をポケットに戻した。
赤い袈裟とターバンを身につけた女性が、ドアを開けて入ってきた。優雅な足取りで郵太郎の向かい側の椅子にすわった。甘い香りが漂う。女性の顔を見て郵太郎は言った。
「占いができるなんて知らなかった」
「魔女の末裔なの」
と奈緒は言って、微笑した。鳳凰の大きな羽根を耳にはさみ、頬には金色の線が炎の揺らめきのように描かれていた。目には赤いカラーコンタクトを付け、赤と金のアイシャドウが奈緒の眼光を鋭くしていた。その目を見つめながら郵太郎は、
「何を占うんだ?」と訊いた。
「あなたが隠していることよ」
と奈緒が言い終えると、部屋の明かりがすべて消え、部屋は闇に包まれた。しばらくして天井からゆっくりと赤い光が降りてきた。お互いの手もとだけが赤く照らされる。彼女の顔は赤い光の向こうで薄闇に包まれて、表情は見えない。
彼女は胸からタロットカードを取り出した。表には宗教画のような絵があり、裏には鳳凰が描かれていた。カードの束を額につけ、カードをシャッフルした。
六枚ずつ二列に奈緒はカードを表にして並べ、郵太郎に近いほうが過去を、奈緒に近いほうが現在を暗示していると、静かに説明した。彼女はカードをしばらく眺め、深呼吸をしてから、
「あなたは、問題を抱えてる。それを隠している」と言った。
「どんな?」
「家族の問題ね」
奈緒の白い指は、食事をしている貴族の家族のカードに置かれた。そのカードは逆さまだった。次にその指は、王子が王の胸に、剣を突き刺しているカードに移動した。王の背後で王妃は血を流して倒れていた。二枚とも過去の並びにあった。奈緒は静かに、
「父と母を憎んでるのね」と言った。
「大学まで不自由なく育ててもらった。憎むことなんてない」
郵太郎は否定したが、彼女は微笑して小さく、
「嘘つき」
と言った。彼女の白く細い指は、意志を持っているかのように宙に浮き上がり、一枚の現在のカードの上に着地した。長い道のりを歩く古びた石版を運ぶ奴隷のカードだった。
「何を背負わされてるの?」と奈緒は訊いた。
「子供は親に何かを背負わせる。俺だけじゃない」
「みんな、なんてどうでもいいの。あなたが背負わされてるものを教えて」
「教えて、どうする?」
「私が焼き払ってあげる」
その言葉はどこか遠くから聞こえてくるように思えた。話すべきか迷い、癖で太ももをさすった。ポケットの膨らみを感じ、鳳凰の視線のなかで堂々としていた寄生虫の姿が目に浮かんだ。郵太郎は、
「名前だよ」と言った。
奈緒は、
「郵太郎、というあなたの名前?」
と言い直した。郵太郎はうなずいて、話しはじめた。
「父は大学を卒業してから三十年近く郵便局に勤めている。郵便配達の現場から支店の局長までのぼりつめ、いまは本社に移り、経営企画部門の要職についてる。父は若い頃に大量の郵便を配達し続ける日々のなかで、ある日ひとつの啓示を得た。あらゆるものは伝えるべき意味を持っていて、それはどこかの誰かへ運ばれていく途中なのだ、と。そのときから郵便配達はただの物体の移動ではなく、伝えるべき意味を運ぶ神秘的な行為になった。父はその重要な任務に就いてることを誇りに思った。人が変わったように父は働いた、とおなじ郵便局で事務職をしていた母は教えてくれた。母は幼い頃から切手収集を生きがいにしていた。郵便好きという共通点のあるふたりは結婚した。プロポーズの言葉はなんだったと思う?」
「教えて」
「『君は僕の妻となるために生まれ、ここまで運ばれてきた。その顔と心に、僕好みの切手を貼って』だった」
「独特ね」
「そして俺が生まれた。両親は大好きな『郵』の字を名前につけた。赤ん坊の俺を撮影するときには、父は知り合いから調達してきた郵便ポストをそばに置き、母はいちばん気に入っていた赤富士の切手を俺の額に貼った」
「名前の話をして」
と奈緒はステンレスのテーブルの縁を軽く指で叩いた。
「お前が生まれたのには意味がある、とよく父は言った。だから文書の伝達を中継する場所という意味を持つ『郵』の字をつけた。生まれた意味を理解して、使命を全うしろ、それを果たさない限り生きている意味はない、と父は人生の節目でよく言った。その使命を果たすための選択をしろってね。中学の部活の選択、高校の進学、大学の受験のときなんかに」
「何が問題なのかしら」
「子供のときから、生まれた意味を考えた。だけど、生まれた意味も将来になすべきことを考えてもわからなかった。わからないから生きてる意味なんてないんじゃないかと思った時期もある。ロボット開発で社会に貢献すると決め、高専で電子工学を学び、今年から理系大学に編入する弟がいる。名前は『便』の一文字で『たより』だ。その弟と比べて父は、生まれてきた意味がわからない俺を、内容のない宛先不明のはがきだな、と言ったこともある」
「就職活動に消極的なのもそのせい?」
「郵便局以外ならどこでもいいと思ってる。でも、給料や福利厚生なんかで適当に就職先を選んで、生きている意味を感じることもないまま働いて、疲れ果ててしまうことにおびえてる。そんなことを考えてると、就職活動にも身が入らない」
「生きてる意味が欲しいのね」
「大げさなのはわかってる。たまたま生まれただけだ。そこに意味も理由もないはずだ。だから自分のできることをすればいいんだ。わかってる。好きだと思うことをすればいいんだ。だけど幼い頃から考えすぎて、自分がわからないんだ。父の言葉が体から離れないんだ」
「なんだか寄生虫みたいね」
奈緒の言葉は静かに部屋に響いた。そして、
「生きている意味を感じないって、どんな感じなの?」
と奈緒は訊いた。郵太郎は手前にあるカードを指さした。吊橋をひとり歩く老人の絵だった。
「ぼろぼろの吊橋をひとりで渡っているような気分だ。あたりは霧でおおわれて先は見えない。風が強くて、次の瞬間にでも踏み板が抜けて谷底に落下しそうな予感がする。怯えている自分が嫌いになる」
「生きている意味がわからなくて混乱してるのね。それを親のせいにして、自分をあわれんでる」
と奈緒は言い、続けて、
「未来を占うわ。十までで好きな数字を言って」と言った。
郵太郎は、七、と答えた。
奈緒はカードの束を過去と現在のカードのあいだに置き、
「未来は山札からめくった絵が伝える」と説明し、七枚目をめくった。
少年の口から一匹の蛇が姿をあらわしているカードだった。体に入っていく途中なのか、出ていく様子なのか、どちらとも判断できなかった。が、奈緒はそのカードを見て、少年が郵太郎で、蛇が父親の言葉だと語った。父の呪縛から解き放たれることを意味していると説明し、
「今日、その問題はきっと解決される。私はその解決方法を知ってる。兆候はすでにあるはずよ」と言った。
「教えてくれよ。その解決方法」
郵太郎の言葉に奈緒は、
「感じるのよ」と答えた。
「あなたがまるごと受け入れられた記憶を。思い出して、その記憶を感じるの。そうすれば生きてる意味なんてなくても大丈夫。そのためには、あなたはあなたを感じる必要がある」
奈緒はそう言うと少年と蛇のカードだけ脇に寄せ、残りのカードをテーブルの中央に集めた。
「これはあなたの過去と現在」
と言い、懐からマッチ箱を取り出すと、一本のマッチに火をつけ、カードに落とした。火は一瞬だけ強烈に光り、カードとともに消失した。
とっさに目をつむると、まぶたの裏に赤黒い炎の映像が焼き付いていた。郵太郎が目を開くと部屋は明るい光に満ちていた。
テーブルの脇には受付の中年女性が立っていて、
「上出来。途中から私がここにいるのに気づかなかったでしょ」
と言い、奈緒に化粧を落として着替えるように言った。奈緒は疲れた様子だったが、椅子から立ち上がり部屋を出ていった。中年女性は郵太郎に、
「よかったでしょう?」
と言った。郵太郎はうなずいた。自分の名前の由来をきちんと誰かにしゃべったことははじめてだった。
「占いのやりかたを学ぶところなんですか?」
と郵太郎は中年女性に訊いた。彼女は微笑して答えた。
「何も教えないわ。服を着せてカードを渡すだけ。あれは占いなんかじゃない。アドリブよ。カードだって私の夢日記を特別な紙に印刷してるだけ。すぐ燃える紙にね」
「適当だったんですか、彼女の占いは」
「そう。でも適当だけど適当じゃないの。人間、深く集中すればいろんなことがわかるのよ。ここは人間のそういう能力を高める場所。服を着替えて、化粧をして、部屋の明かりを変えるだけで、誰もが占い師になれる」
受付の前で奈緒を待つように言われて、郵太郎は部屋を出た。昼間の病院のように明るい廊下を歩いた。無数の鳳凰の絵は、その神秘的な力を失っているようだった。
生きている意味がわからない、という問題の、解決の兆候はすでにある、と奈緒は言った。ジーンズのポケットの膨らみに手を伸ばす。回虫はゆっくりと動いた。
「あなたは、あなたを感じるの」
問題の解決方法を奈緒はそう説明した。郵太郎は回虫を見つめて、
「お前は何を感じてるんだ」と静かに言った。
4 回虫はゆっくりと体の先端を壁にこすりつけた。赤い光を浴びた白くほっそりとした奈緒の指に似ていた。
廊下の奥から奈緒が歩いてきた。小瓶をポケットにしまった。いっしょにドアを出て、エレベーターに乗り、地上へ戻った。
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