回虫のように 7章

 チケット売り場の女性は、閉園まであと三十分です、と告げた。
 平日の客は少なかった。カップルや学生のグループが何組かいるだけだった。まっすぐに観覧車へ向かった。ジェットコースターの走る音に人間の声が少しだけ混じっていた。夜のなかで観覧車はカラフルな光を不気味に放っていた。
 ほとんど待つことはなかった。赤く光るゴンドラの扉を係員が開け、なかに入り、ふたりは向き合うようにすわった。だんだんと地上が離れ、街が小さくなっていく。
 郵太郎は真面目な振りをして、
「いつ爆破するんだ?」奈緒に訊いた。
「頂上よ」奈緒はあたりまえのように答えた。
「爆弾は?」
「あなたよ」奈緒は郵太郎をまっすぐ見て言った。
「俺が、頂上で、爆発する」
「そう」
 奈緒はいったん視線をずらして外の風景を見た。そしてもう一度郵太郎に視線を戻した。美しい仕草だった。
「私、あなたが好き。好きな人が自分を嫌ってるのはイヤ。父親の言葉になんて呪われないで。自分が感じていることを感じて。私があなたを受け止める。私は一本の樹になってあなたの心に根を下ろす。生きる意味なんていらない」
 そう言うと奈緒は、ゆっくりと席を立ち、郵太郎の隣に腰かけて、身を寄せた。頂上が近づく。
「今日、ずっと、私を見てた。いつもとは違う視線だった。強く求められてる気がして体が熱くなった。もっと強く求めて。それがきっと、あなたが変わるきっかけなのよ」
 奈緒は郵太郎に顔を近づけた。頂上が、もう来る。彼女は顎の先を少し上げて、目をつむった。その瞬間に奈緒は、
「爆発して」と言った。
 頂上で、郵太郎は奈緒の首を左手でそっとつかみ、唇を重ねた。彼女の舌が郵太郎の舌を迎える。唇が離れると奈緒は目をつむったまま、
「もっと求めて」と言った。
「俺のすべてを受け止めてくれるか?」奈緒は目を閉じたままうなずいた。
「目をつぶって。観覧車が地上に降りるまでずっと。なにがあっても」
 郵太郎はそう言うとジーンズのなかから小瓶を取り出した。右手だけで蓋をはずし、小瓶を逆さまにした。掌に回虫が落ちる。
 先端をつまみ、奈緒の顔に近づける。月光が回虫を照らしている。回虫は体を振り回していたが、すぐに静かになった。
 奈緒の顎を左手でつかみ、口を開かせた。小さな丸い闇が彼女のなかにあった。その闇に落ちるように、郵太郎は指を離した。回虫が音もなく、奈緒のなかへ落ちていった。
 彼女は苦しんだ。何度か咳をしたが、目も口も開かなかった。郵太郎は小瓶をポケットにしまった。地上が近づいてくる。奈緒は背もたれに体を預け、目を閉じたまま言った。
「何を入れたの?」
「俺の分身。命に別状はない」
 奈緒は少し笑い、
「感じるわ。あなたの分身が私のなかのどこにいるかを」と言った。
「私がいまどんな気持ちかわかる?」
 正直に答える必要がある、と郵太郎は思った。だから、
「わからない」と言った。
「安心してるのよ。得体の知らないものを飲まされたのに。不思議。私はあなたをまるごと受け止めることができた。いつも一緒にいることができる。そのことがうれしいの。あなたはもう生きる意味なんて考えなくていいのよ。私がいるんだから。父親の呪いは解けるはず」
 と言い、郵太郎にひと言、
「あなたはどう?」と訊いた。
ゴンドラは地上に接近している。係員が扉に手を伸ばしている。郵太郎は、
「生きるのが許されたような気持ちがする」と答えた。
白い回虫が闇に消える瞬間を忘れることはないだろう、と郵太郎は思った。
 ガチャン、と音がしてゴンドラの扉が開いた。郵太郎が先に降り、奈緒の手をとった。そこで彼女は目を開けた。地上に足をつけると奈緒は、
「とても気持ちのいい夜ね。なんだってできそう」と言った。
 夜は深まっていた。濃い群青の闇のなかに星がわずかに光っていた。たったいま夜が月をすこしだけ食べたように見えた。月はきれいな半月になった。
 奈緒の姿はどこか変わっていた。体の輪郭がくっきりと風景から浮かび上がっているようだった。いっそう魅力的になった。
 その奈緒を誰もいない園内のメインストリートの中央で抱きしめた。無機質な光を街路灯が放っていた。奈緒は郵太郎の背中に手を軽くまわして、
「どうしたの」と言った。
「抱きしめたくなった」
「そう感じたのね」
「そうだ」
 郵太郎の返答に彼女は満足したように微笑した。奈緒は、
「このあとは、どうする?」と言った。
「君の家だ」
 郵太郎の言葉に奈緒はうなずいた。閉園のアナウンスが流れた。

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