回虫のように 12章
奈緒が吐血して病院に緊急搬送されたのはその日から二週間後だった。
食道から胃にかけていくつか小さな裂傷が見つかり、そこから出血したと診断された、と奈緒は語った。薬を処方され、脂が多いものや辛いものを食べることを控えるように医師に注意された。奈緒は血を吐いたときの状況を次のように言った。
「キャンパスのベンチで友達とお弁当を食べようとしたら咳が止まらなくなったの。何度か重い咳をしたら血が出た。それで気分が悪くなってその場で少し吐いたの。そしたら血がどろっと混じってて。私は大丈夫だって言ったのに、その子は血が苦手で、すぐに救急車を呼んじゃって、大学がちょっとしたパニックになったわ。回虫は無事よ、食事の前に小瓶に入れておいたから」
原因は回虫だった。一日に三度、食事の前に彼女は嘔吐した。食後だと体に必要な栄養も吐き出してしまう。体に負担をかけてまでそうした理由の半分は郵太郎のためだった。
「飲み込んだら、できないじゃない」と奈緒は言った。
彼女の舌と絡み合う回虫を見ないと勃起しない郵太郎のために、いつでも吐き出せるようにしておく必要があった。
半分は奈緒自身のためだった。郵太郎をまるごと支えている、ということを確認するために回虫を見たり触ったりすることを彼女は望んだ。
ある日の夕食に焼肉を食べに行った。食事をする前に奈緒は、周囲に気を遣い、回虫をトイレで吐き、小瓶に入れて席まで戻ってきた。小瓶には、回虫を口から飛び出させながら笑っている奈緒がひとりで映るプリクラと、回虫だけのプリクラが貼ってあった。
「あとで私の胃のなかで味わってね」
奈緒は親しみをこめて小瓶に向かって言った。
食前だけでなく、奈緒は、不意に回虫を吐くこともあった。郵太郎の授業に彼女が潜り込んできたときのことだ。学生の席は、前方の黒板やスクリーンのある教壇から離れるにしたがって段が高くなっていた。百人を超える学生が大教室で受講しており、郵太郎たちは真ん中の段の中央にすわっていた。
教授が大型スクリーンのほうを向いてしゃべっているときに奈緒は郵太郎の肩をたたき、おえっと小さく言って、口に回虫を呼び出した。用意していたウェットティッシュを机に敷いて、奈緒は口からつまみ出した回虫を寝かせた。
「みんなで勉強しよう」と言ってうれしそうに微笑した。
チャイムが鳴ると奈緒は回虫を堂々と吸い込み、飲み込む前に、わざと郵太郎に、舌と踊る回虫を見せつけた。郵太郎を誘うサインだった。その日、奈緒をアパートで抱いた。
奈緒は少しずつ痩せていった。目が少しくぼみ、頬がこけた。彼女自身はそれを喜んでいた。痩せた奈緒を被写体にした写真がコンクールで入賞したからだった。
神社の境内までの長い階段の途中で後ろを振り返った奈緒を、下から撮影した写真だった。構図に惹かれる点はなかった。ただ奈緒のやや虚ろな目に、引き込まれてしまう。入選理由は、
「潔いほどこの世界への興味が失われている」
と審査員のひとりが熱く評したからだった。それを聞いた奈緒は、
「私、ぜんぜんそんなこと考えてないのに」
と笑って言った。写真を撮影した後輩にもそんなつもりはなかった。ただ後輩が美しいと思う瞬間にシャッターを押しただけだった。
体重の減少とともに、奈緒は鈍感になった。郵太郎の言葉を聞き返すことが増えた。もう一度言って、と彼女は何度も言った。よくつまずくようになり、腕や足に、本人の覚えのない小さな傷や痣をつくった。
一日に何度も吐くことで栄養が体に行き渡ってないことは明らかだった。あるとき奈緒にそう言うと、
「わかってる。だからその分食べてるようにしてる」と冷静に言った。
その翌日に、奈緒は血を吐いたのだ。
退院した奈緒を、池袋駅北口近くのビルの二階にある喫茶店に誘った。窓際のボックスシートに、窓を背にして奈緒がすわり、テーブルをはさんで郵太郎がすわった。彼女の肩越しに見える窓には雨滴が幾筋か垂れていた。
「回虫を吐き出すのをやめてくれないか」
と郵太郎は言った。少し間を置いてから奈緒は、
「なぜ?」と訊いた。
「君の体に悪い」
「たまたま血が出ただけよ。いま食道に負担をかけずに吐く方法を探してる」
奈緒は吐く前にヨーグルトや白湯を飲み、食道にかかる負担を軽くできないかと試しているらしい。科学的根拠のない方法だった。
「頬がこけてる。顔色も悪い。何度も吐いてるから栄養をきちんと吸収できてないんだ。だから回虫を吐き出してくれ。それか駆虫薬を飲んでくれ」
郵太郎はポケットから駆虫薬を取り出してテーブルに置いた。
「どちらも嫌。私たちのつながりはどうなるの?」
「観覧車で飲み込んでくれたことで充分だよ。あの記憶だけで俺たちは深くつながることができる」
「私のお腹に回虫がいると、安心感や優越感があるんじゃないの?」
「君の健康のほうが大事だ」
「え? もう一度言って」
「健康のほうが大切だ」
「体は大丈夫よ」
奈緒は背中を少し丸めておえっと小さく言った。回虫を吐き出すことに問題はないと示したいのだろう、と郵太郎は思った。が、口のなかの回虫は血を浴びて赤く染まっていた。
「やっぱりだめだ。もう回虫を体から出してくれ」
奈緒は首を横に振った。涙目になっていた。血まみれの回虫を飲み込むと彼女は、
「口、洗ってくる」と席を立った。
ビルの窓を叩く雨音はしだいに強くなっていった。打ちつけられた雨粒は衝撃で散り、他の雨粒と融合し、形を変えていった。
回虫を宿した奈緒との日常生活は、ふたりだけで世界のすべてを騙しているかのような気分になれた。回虫がいなくても彼女とのつながりは薄れないはずだ。奈緒は回虫を吐き出す、それでいいのだ、と郵太郎は思った。
奈緒は席に戻ると、
「回虫はもう吐き出さないけど、駆虫薬も飲まない」と静かに言った。
「どういうこと?」
「小腸に移動してもらう。食道を痛めることもないし、食事の栄養もたっぷり吸収できる。でも回虫を呼び出せないと、ひとつ問題がある」
「君を抱けない」と郵太郎は答えた。
「どうしてそうなってしまうの?」
「たぶん君のなかにすでに俺がいるからだろう」
「私、できることはやる」
「例えば?」
「男の人が興奮するような服装やシチュエーションに取り組むのよ」
「こだわった性癖はないよ。この問題はきっと時間が解決してくれる」
「やってみないとわからないわ」
そう言って奈緒は冷めたコーヒーカップに口をつけた。郵太郎は駆虫薬をポケットに戻した。ふたりは大学の授業やサークルやバイトや就職活動の近況を話し合ったあと、喫茶店を出た。雨はあがり、厚い雲が十一時の街を覆っていた。池袋駅まで歩き、奈緒はサークルの集まりに、郵太郎は午後の授業のために、ふたりは別れた。
奈緒はだんだんと体重を戻していき、表情も明るくなっていった。だが、つまづいて体に小さな痣をつくったり、ぼうっとして駅を乗り過ごしたりすることはむしろ増えた。
体育館でのフットサルサークルの練習に奈緒が顔を出したことがある。彼女がそばにいるとやはり郵太郎は体が軽くなり、思うようにプレーすることができた。練習の休憩時間に、後輩の佐藤春子は、
「奈緒さん、元気になりましたね。実はちょっと心配してたんですよ。不健康そうな痩せかただったから。先輩が暴力とか振るってるのかなって」と笑いながら言った。
春子は、奈緒とたまに買い物やランチをしているらしかった。郵太郎はそのような話を奈緒から聞いた覚えがなかった。恋愛の相談に乗ってもらってるんです、と春子は体育館の床を指でこすったり、耳を押しつけたりしながら言った。
奈緒にその話を訊くと、
「映画も一緒に見に行ったわ。趣味が合うの」
と答えた。そんなことよりも、と奈緒は続けて、
「今日、何も身につけてないのよ」
スカートの裾を少し上げた。下着を着ていない、ということだ。
回虫を吐き出さないと決めた日から、奈緒は男が興奮するものを調べ、会うたびにひとつひとつ実行した。露出の激しい下着や服を身につけ、女性器を刺激するアダルトグッズを自分で用意した。
それでも郵太郎は勃起することがなかった。裸の彼女がどのような格好をしても、体が反応することはなかった。薬も試したが効果はなかった。回虫を飲み込んでしまった奈緒を、肉体を分け合った分身のように郵太郎は思った。彼女もそれほど欲情していない様子だった。ふたりはいつも裸で抱き合うだけだった。奈緒は、
「もっと方法があるはずよ」と言った。
「俺が興奮するための?」
「そう」
「君はもう俺の一部分だ。自分自身に興奮することはない。そのかわり強い安心感がある。それでいいよ」
「でも強く求め合いたいの。こうしてるのは幸せだけど」
「駆虫薬を飲む?」
「それだけはしない」
奈緒は下腹の部分に郵太郎の手を当てた。柔らかい肌を優しくさすった。
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