回虫のように 13章
「いいアイデアが浮かんだの」
と奈緒が連絡をしてきたのは、五月の長い連休に入ってすぐだった。直接伝えたい、と彼女は言った。郵太郎のアパートに奈緒が着いたのは十時前だった。
また新しい下着でも買ったのだろうか、と郵太郎は思った。彼女とセックスができなくなって二週間ほどが経っていた。
ドアを開くと奈緒が明るい顔をして立っていた。白い無地のTシャツに赤いカーディガンを羽織り、タイトなジーンズを履いていた。その場で奈緒は、
「あなたが飲めばいいのよ」と言った。
「何を?」
「回虫よ」
奈緒は肩にかけたこぶりなバッグから小瓶を取り出した。彼女が飲み込んだはずの回虫がそこにいた。
困惑している郵太郎の脇を抜け、彼女は部屋へ入った。
郵太郎はインスタントのコーヒーを沸かし、ふたつのマグカップを居間のテーブルに運んだ。奈緒は足を揃えて床にすわり、テーブルの中央にある小瓶を見つめていた。
「この回虫はどうしたんだ」
と郵太郎はまず訊いた。奈緒は、
「今朝、出たのよ。お尻から。ひどい腹痛だった。トイレで引き抜いたの」と言った。
「今度はあなたが飲めばいいの」
「それはどういう意味なんだ?」
郵太郎の言葉に奈緒は次のように興奮気味に言った。
「二週間ずつ交代で回虫を飲めばいいの。まずあなたが飲む。食前に吐き出し、食後に体へ戻す。二週間経ったら、今度は私が二週間飲み込む。そうすれば、食道を痛めて血を吐くこともないし、不健康に痩せ続けることもない。どちらかの胃にあれば、ふたりでベッドに入ったときに、いつでも取り出せる。私が口に含めば、あなたは勃つはず。名案でしょう」
「俺が飲むのか」
と郵太郎は言った。舌に乗っている回虫を想像しただけで気分が悪くなる。奈緒はすぐに、
「私に飲ませといて、そんなこと言わせない。でも心配しないで。私にまかせてくれたら、大丈夫だから」
と言って微笑した。美しい手付きでマグカップを持ち上げ、奈緒はコーヒーに口をつけた。薄い、と彼女は感想を言った。それから宙の一点をじっと見つめ、眉をピクリと動かした。何かを思いついたようだった。奈緒はその閃きを言葉にした。
「いまから、行く?」
「どこへ?」
「観覧車に乗りによ。あそこが回虫を飲むにはいいでしょ。一周したら別の人間になるの」
午前の用事はなかった。そう伝えると、奈緒はコーヒーを一度に飲み干し、
「それまでは私が飲んでおく」
と言って、顎をあげ、小瓶を口の上でさかさまにした。回虫が姿を見せた。記憶しているよりも長く太くなっているように郵太郎には思えた。
アパートの部屋を出て、池袋駅まで歩き、地下鉄に乗り、後楽園駅で降りた。遊園地までの道は混んでいた。連休で子連れの家族でにぎわっていた。雲ひとつない青空の下で、子供は視界に入るすべてに反応しようとせわしなかった。
観覧車に乗るのにも時間がかかった。奈緒はずっと郵太郎の手を握っていた。列が前進するたびに、力強く郵太郎の手を引いた。
あの日とおなじ赤いゴンドラが目の前に近づいてきた。土気色をした中年男性が手際よく扉を開き、なかに入るように促した。
奈緒は郵太郎の隣にすわった。ゴンドラはたんたんと上昇していく。街が、離れていく。
「頂上よ」と奈緒は言った。
頂上で回虫を渡す、という意味だろう。頂上まであとの少しのところで奈緒は郵太郎の肩に顔を寄せ、上目遣いをした。郵太郎を見つめる瞳が一瞬だけ震えた。唇のあいだから回虫がはみ出した。太く、長くなっていた。回虫は奈緒の体のなかで成長したのだ。
回虫を含んだまま奈緒は明瞭な発音で、
「これは、あなたでもあって、私でもあるのよ」と言った。
回虫は郵太郎の内側だけでなく、奈緒の内側の闇を通り抜けたのだ。口と腸と肛門と生殖器しかないこの生物は、奈緒の内側を知っている。人間の内側を知っている。
くちゃりくちゃりと、奈緒は舌で回虫を弄んだ。回虫はその身を、舌にできた唾液のたまりで洗い、舌の根に体をこすりつけ、ピンクの歯茎に寝そべり、ときに身を激しく動かした。奈緒はずっと郵太郎を見つめていた。挑発的な視線だった。そばで見ているだけでいいの、と誘惑する目つきだった。
頂上は、すぐそこだった。
郵太郎は腹の内側に感情の渦を感じた。奈緒と自らの分身の絡み合いを見ていたい気持ちと、回虫を舐め回すという非常識な行動をいますぐ止めさせたい思いと、奈緒の分身となった回虫を奪い、おなじように舌で楽しみたい、という衝動が体の奥底で溶け合い、郵太郎にひとつの行動をさせた。
ゴンドラが頂点に達したとき、郵太郎は奈緒の首をつかみ、激しく口づけをした。
舌を伸ばす。彼女の舌に触れる。そしてふたりの分身に触れた。つるりとした舌触りだった。回虫はあたたかく弾力があり、無味無臭だった。
奈緒と回虫の両端をくわえあい、そのまま口づけをした。もう何もいらなかった。いまこの瞬間に時間を止めてくれ、死んでもいい、と郵太郎は思った。それほどに心が満たされた。
ひとつ後ろのゴンドラに載っているカップルがこちらを不審な目で見ていることに気づいた。郵太郎はその目に無性に腹がたった。ゴンドラの窓を叩き割り、叫んでやりたくなった。
お前らは手をつないだり、プレゼントを交換したり、キスしたり、ちょっと変わったセックスをするだけで、お互いに愛し合ってると勘違いしているだけだ。こっちをもっと見ろよ、本当に愛するってことは相手をまるごと受け入れるってことなんだよ。言葉や気遣いじゃないんだよ、肉体的に受け入れるってことなんだよ。さあ、もっと見ろよ。
郵太郎の怒りはすぐに消えた。さらに激しく奈緒に口づけをして、満ち足りた気分になったからだ。地上が近づいてくる。お互いにつながり、愛し合っていると錯覚する連中が大量に列をなしていた。
奈緒はシートに膝立ちになり、郵太郎の頭を両手でつかんだ。回虫を含む奈緒の口が、回虫を求めて舌を動かす郵太郎の真上にある。ゴンドラが地上に降り、係員が扉に手をかけようとした瞬間に、回虫が奈緒の口から落下した。舌の根に着地した回虫は、そのまま郵太郎の小さな闇に滑り落ちていった。
「足もとに気をつけて降りてください」
係員の声が、薄いビニール越しから聞こえるように郵太郎には思えた。ゴンドラの外へ出て、大きく深呼吸をした。
「どう?」という奈緒の言葉に郵太郎は、
「とても気持ちがいい。なんだってできそうだ」と答えた。
回虫は胃のなかで震えたような気がした。
自分の内側を知り、奈緒の内側を知り、古来より人間の内側を知っている回虫がいま、体のなかにいる、と思うとたまらなくうれしくなった。もうひとりじゃないのだ。
体の奥底から活力が漲った。走り回りたい気持ちになった。郵太郎は奈緒にジャケットを預け、家族連れやカップルや学生グループが人形のように移動している園内のメインストリートを右へ左へと走り抜けた。何度かその場で大きくジャンプをした。じろじろと見られたが、他人の目なんてどうでもいい、と郵太郎は心の底から思った。できもしない逆立ちに挑戦した。静止画のような風景が反転した。背中から落ちた。世界の音が小さくなった。いつのまにか奈緒がそばに立っていて、
「そのへんにして」と言った。
奈緒の頭越しに青空が広がっていた。雲は形を変えずにどこかへ移動していた。風が強く吹く音が耳に届いたが、風の流れを感じることはなかった。
お腹が空いたと奈緒は言い、池袋駅北口のイタリアンレストランで昼食にすることに決めた。電車で池袋へ戻るあいだ、郵太郎はずっと腹をさすっていた。窓の外を眺めるたびに、景色は写真に切り取られたように動きを止めた。ビルと空や、建物同士の境界線がくっきりと認識できた。
「何もかもがくっきりと見えるよ」と郵太郎は言った。
「私とつながってる安心感があるから、景色が確固たるものに見えるのよ。もう足もとが崩れ去る不安なんて感じないはず」
「君も、そうだったのか」
「そうよ」
「いまは?」
「少し寂しい。けど大丈夫。あなたがそばにいるから」
「俺が、いなくなったら?」
「あなたのなかにいる回虫を想って、その感覚を思い出す」
奈緒のまなざしは精巧につくられた人形のように美しかった。
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