回虫のように 17章

 抜糸の前日の夕方に、冷蔵庫の中身が空になり、用意していたレトルト食品もなくなったので、最寄りのスーパーに向かった。
車道の脇の歩道をひとり歩いていると、吊橋を歩いている気持ちになった。吊橋はどんどんと朽ちていき、風は強く吹き、踏み板が揺れる。背後には時間の墓場としての虚無が広がる。歩き続けるしかない。使命を自覚していないからだ、と父の声が風のなかに聞こえる。どこにも誰にもつながっていない、と郵太郎は思った。
向こうから女性が歩いてくる。街路樹を過ぎるたびに葉を指でこすっていた。佐藤春子だった。
「生きてるじゃないですか」と彼女は言った。
 いつものラフな格好とは違い、白いシャツに濃い緑色のスカート姿だった。郵太郎は春子が持っている小さな箱を見つめた。その視線を受け止めた春子は、
「お見舞いですよ。先輩の。奈緒さんに頼まれたんです。寂しがってるだろうから様子を見てきてって。だから私の好きな喫茶店のケーキを買ってきたんです」と言った。
「連絡してくれよ。家には飲み物もない」
「メールも電話もしたけどつながりませんでした」
 郵太郎はここ数日、携帯電話の電源を切っていたことを思い出した。
「ケーキ食べましょうよ。別に水でもいいですよ。水道代は払ってますよね」
 春子はそう言ったが、近くに小さな公園があるのを見つけて、
「せっかくだからあそこで食べましょう。天気もいいし」と郵太郎に提案した。
 公園にはすべり台と鉄棒と砂場と東屋があった。幼い子供とその母親が二組いるだけだった。東屋の木材でできたテーブルをはさんで向かい合い、おなじ木材の椅子に郵太郎と春子はすわった。自動販売機で缶コーヒーをふたつ買った。
 春子の用意したケーキは郵太郎もよく通っている池袋駅メトロポリタン口からすぐの喫茶店のものだった。
「先輩はチーズケーキ、好きでしたよね。これ新作です」
 と春子は言いながら、箱を展開した。チーズケーキを郵太郎のほうへ押し出し、自分のほうへモンブランを引き寄せた。
 プラスチックのフォークでチーズケーキをひと口食べた。舌の温度でチーズは溶け、濃厚な香りが口に広がり、鼻腔を抜けた。滑らかな舌触りに郵太郎は満足した。春子は目を閉じてモンブランを味わっていた。やっぱりおいしい、と彼女は笑顔で言った。
 春子は郵太郎の怪我の具合を尋ねた。ステープラーから手縫いへとやり直しになったことを痛みの感覚とともに伝えた。彼女は顔をしかめつつも、郵太郎の不運を笑った。
 フットサルサークルの現況を話し終えるとわずかに沈黙が降りた。春子は、
「奈緒さんと別れたんですか?」と訊いた。郵太郎は黙った。
「寄生虫を交換するほどの仲だったのに」
 と彼女はそう言って笑った。郵太郎は、
「どう思う?」と訊いた。
「何がですか?」
「寄生虫を交換すること」
「冗談でも、気持ち悪いです」
「生きていることの不安を消すことができたとしてもか? 目に映るすべてがくっきりと固まり、変化のない確かな世界に立っているという安心感があるとしてもか?」
「だったらなおさら気に入らないです」
 春子はフォークで郵太郎のチーズケーキの最後のひと口を突き刺し、食べた。とろけますね、とうれしそうに言った。
「何が気に入らないんだ?」
 と訊いた郵太郎の言葉に春子は、戻りましたね、と言った。郵太郎は続きを待った。
「ひとりよがりのプレーをする前のいつもの先輩の顔に。パスをしたくなる先輩に」
 春子は言い終えると、椅子から立ち上がり、砂場に向かった。親子は姿を消していた。砂場の縁に立ち、郵太郎を手招きする春子の姿を夕日が赤く照らした。
 砂場の中央には小ぶりな砂山が出来ていた。春子は服の汚れを気にする様子もなく、山の麓を手で掘りはじめた。春子は、
「先輩は反対側。地下トンネル、作りましょう」と言った。
郵太郎はしかたなく手伝った。爪に砂が食い込む。じゃりじゃりと音がする。
「お前は寂しさや孤独が怖くなったりしないのか」と郵太郎は訊いた。
「なりますよ。そりゃたまには」
「どうやってやり過ごすんだ?」
「開通記念に教えてあげます」
 春子は途中で飲み終えた缶コーヒーに公園の水道水を入れてきた。砂を濡らして固め、いちどに多量に砂を取り出した。郵太郎も懐かしさを感じた。二十歳を超えてこんなことをやるとは思わなかった。濡らした砂に指を食い込ませ、ショベルのように掻き出す。穴に手首が入り、肘が入ろうかというところで、指先の砂壁が崩れ、春子の指に触れた。触れた途端に春子は地中のなかで郵太郎の手を強く握った。そして、
「感じるんですよ」と春子は言った。
顔は砂山に隠れて見えない。孤独や寂しさや生きている不安への対応のしかたを彼女は言葉にしたのだろう、と郵太郎は判断し、
「自分のことを感じるのか」と訊いた。
あなたは、あなたを感じるのよ、と占いの館『ホウオウの館』で奈緒がそう言ったことを思い出した。春子は微笑み、
「自分以外のすべてを、です」と言い、こんなふうに、と言葉を添えた。
春子の五本の指が郵太郎の指を一本ずつゆっくりとなぞっていく。春子の肌と砂利を指先の皮膚で感じる。彼女の指は皮膚を、肉を、骨をときに強く、ときに弱くつまむ。爪と肉の間に侵入してくる。
「先輩の指は長くて厚いです。しっかりした五本の骨が指の肉の下にあります。四角い爪の表面はなめらかです。指と指のあいだの水かきのような肉の膜には弾力があります。こんな弾力を感じたのははじめてかもしれない」
 春子はうれしそうに郵太郎の指の根元をさわりはじめた。彼女の絡みつく指が五匹の回虫のように郵太郎には思えた。
「こんなことにどんな意味があるんだ」と郵太郎は言った。
「やってみればわかりますよ」
 春子は指を動かすのを止め、手を郵太郎のほうへゆっくり差し出した。彼女の指にされたことを、おなじようにした。指をなぞると無数の砂利ともになめらかな肌があった。爪の縁には、指とは違う薄い肉の感触があった。郵太郎の意識はどんどんと指先に集中していく。肉の下の骨の起伏を感じる。そのかたちを美しいと思った。指のあいだの肉の膜には小さな弾力があった。触覚だけで存在を確かめることに心が踊った。そこに春子の指が存在する、というあたりまえのことに郵太郎は思い当たった。
「感じる喜び、ありました?」
 郵太郎は彼女の手を握り、
「あった。それが、生きてる不安の解消法ってことか」と訊いた。
 春子は郵太郎の手を握り返し、
「そうです」と言った。
「小学生の頃に入った女子サッカーチームの男性コーチに画家がいたんです。画家を自称してるだけで絵は下手だし、当時の私が見てもセンスがないな、っていう変な人でしたけど。サッカーは抜群にうまかった。その人の口癖が、世界への感受性を磨け、だったんです。取り上げたばかりの赤子や異性の裸や人間の遺体を初めて見たときのように、世界を感じろって。たまに顔を出してそんな突拍子もない言葉を繰り返すだけで、誰もその助言を真剣に受け止めなかったんですけど。サッカー関係ないですし。でもある日、理解できたんです。そのとき私は、試合で全然活躍できなくて落ち込んでました。何をしてもうまくいかなかったんで、そのコーチが試合前にやってたことを真似てみたんです。地面にごろごろ転がってみたり、ブリッジしながら空を見たり、風がどの方角から吹いているかを気にしたり、ピッチやボールを嗅いでみたり」
「お前がよくやってるあれには意味があったのか」
 もちろん、と得意げに春子は言い、言葉を続けた。
「何度も繰り返してると、地面のコンディションや風の強弱や日差しの照り具合なんかの機微が自然とわかるようになったんです。そんなふうに、景色を眺めてると、おなじ瞬間なんて二度とないんだ、ということにも気づきました。この方角の風と、この角度の日差しと、この地面の硬さとこの汚れたボールが存在する瞬間はもう二度とないんだって。だから味わおう、もっと感受性をあげようって。で、気づいたらサッカーがうまくなってました。周りのことばかり感じるようになってたんで、敵も味方もボールの位置も把握できるようになってました。感じる自分の体の扱いも慣れてきたので、動きにキレが生まれました。自称画家はいいこと言ってたんです。いま生きているのか、死んでるのかもわかりませんけど」
 春子は語っているあいだにも郵太郎の指に触れていた。
「それからサッカーの試合以外の日常生活でも、五感を意識して、いまこのとき、を味わうようにしてるんです。ふとしたときに世界の美しさや奇妙さに気づきます。世界を感じる力が豊かになります。自分を囲う世界にたくさんの喜びを見出だせます。孤独でも寂しくても、いつでも喜びを感じられるから、不安にもなりません。だから私は憎むようにしています。この感受性を奪うようなものを。いくらあたりまえとして大勢に受け入れられているものでも、寄生虫みたいな珍しいものでも、世界を固めて、私の感じる喜びを奪うものは」
 と春子は言い切り、郵太郎の手を離し、穴から手を抜き、立ち上がった。彼女は手をはたいて砂を落とし、両手を横に広げて、目を閉じて伸びをした。夕陽を全身に受けた彼女は気持ちよさそうだった。郵太郎もおなじように伸びをした。
「不思議なんですけど、感覚がひとつ鋭くなると、他の感覚も開かれるんです。例えば触覚の感受性が高まると、聴覚や味覚の感覚も鋭くなるんですよ」と春子は言った。
肺に新しい空気が入ってくる。首に日光のわずかな熱を感じる。広げた両手の指先に微風が触れた。カラスが鳴いている声がしていた。夕陽と風と鳥の声を同時に感じた瞬間に、自分が溶けたように思えた。生きている、と郵太郎は思った。
「感じるんです。自分以外のすべてを感じ続けるんです。世界を、もっと豊かに。よく見て、よく聞いて、よく嗅いで、よく味わって、よく触れるんです。気持ちいいことも気持ち悪いことも、です。生きてる世界を豊かに感じることができれば、生きてる意味なんて考えることもないし、漠然とした不安も感じなくなります」
 春子はそう言って東屋に戻り、ケーキの箱を片付け、公園のゴミ箱へ捨てた。春子は頭の傷を見たがったので、郵太郎は髪を押さえて見せてやった。
「気持ち悪い」
彼女はそう言って、傷口に優しく指で触れた。
「やっぱり気持ち悪い」
 春子の言葉にふたりは笑った。
 腕時計を見た春子は、
「もう時間。このあと彼氏と会うんで」
 と言い、それじゃ、と片手をあげて挨拶をして、急ぎ足で公園を去ろうとした。
「お見舞いありがとうな」
「試合で点取ってください。次、ヘディングシュートさせるパス出します」と彼女は言い、自分の言葉に笑った。
 春子がいなくなった公園を郵太郎はスーパーに近い出口から出た。砂場を通り過ぎるときに自分が掘った穴を見つめた。埋めたほうがいいか、とふと思ったが、その思いを否定した。

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