回虫のように 15章

 まず眠れなくなった。奈緒に回虫を渡した夜、ベッドに入ると目を閉じていつものように、明日は六時に起きる、とつぶやいた。胃からの反応がないことで、回虫がいないことを実感した。胃に回虫の感触を求めてしまい、結局明け方まで眠ることはできなかった。
 起きると時間はすでに昼前だった。大学の講義には間に合わない。いつものように食事をする前にトイレに入り、回虫を吐き出そうとして上体を倒し、尿と便のかすかな臭いが鼻についたときに、回虫がいないことを思い出した。途端に、不安な気持ちになった。
郵太郎と奈緒の化身で、人間の内側を知り尽くしている回虫がいない。その現実に強く揺さぶられた。生きている意味を自覚し、その使命をまっとうしない生など無意味だという父の呪縛を、郵太郎の分身である回虫を奈緒が受け入れることで、解いてくれた。誰かにぜんたいを受け入れられている、つながっているという実感があれば、生きている意味など必要なかった。そして回虫を自ら飲み込むことで、奈緒すら必要ではなくなった。生きる不安のない生活を手に入れたはずだった。しかし、その回虫がいない。呪縛が蘇る。
トイレのドアを閉めて短い廊下へ出た。そこが吊橋のように思えた。深い谷間にかかる、先の見えない吊橋を、強風のなかひとりで歩いているような気持ちになった。
食事をしても、大学の講義へ出ても、バイトをしても、友人たちと歓談をしても、眼前には吊橋があった。次の瞬間には踏み板が割れ、谷底へ落ちていくのではないかとびくびくするようになった。
 二週間の我慢だ、と言い聞かせても、ふとした瞬間にあらわれる吊橋を怖れた。
 大学のゼミでは講師の言葉がよく聞き取れるようになったが、頭のなかで論理を積み重ねているうちに、ふと吊橋のことを考えてしまい、議論を把握することができなくなった。意見を求められても、あたりさわりのない無害な意見を口にすることしかできなかった。
 居酒屋のバイト先では店員を呼ぶ客の声がくっきりと聞こえるようになったが、別の客に同時に呼ばれると、どちらに向かえばいいのかわからなくなってしまい、立ちどまってしまう。そのせいで他のバイトよりもテーブルに注文を取りに行くのが遅れてしまう。注文を取っても、正しく聞き取れたか自信がなく、何度も確認して客に呆れられることもあった。そのたびに、踏み板がはずれて谷間に落ちていく想像ばかりしてしまい、とっさに体を縮こませてしまった。正社員には、
「よぼよぼのじいさんなんじゃないんだからよ」
 と厨房に呼び出されてきつく注意された。
 自分の判断に自信が持てなくなり、うつむくことが増え、姿勢がだんだんと悪くなった。
 ある日、佐藤春子にフットサルの大会に出ないかと誘われた。サークルとしての出場ではなく、春子の仲のよい友だちで構成されたチームでの参加だった。気分転換になればと郵太郎は誘いに応じた。
 王子駅からすぐのフットサルコートにあらわれたマスク姿の郵太郎を見て春子は、
「風邪なら家で休んでてくださいよ」と言った。
 排気ガスの臭いが気になる日がある、と郵太郎が説明すると、
「そう言われると、いつもより臭いかもしれません」
 春子はくんくんとあたりを嗅ぎ、そう答えた。
 郵太郎は春子の綺麗な微笑をじっと見つめていた。頬の筋肉があがり、目尻に線ができる様子に見入ってしまった。顔の筋肉の連動ほど不思議なものはないのではないか、と郵太郎は思った。
「活躍を期待してます」と春子の友人の男性が言った。
 その大学一年生の男性は先日のフットサルの練習試合で、回虫を飲み込んでいた郵太郎の活躍を別のフットサルチームの新入生として見ていた。回虫のいない郵太郎は、うん、と小さく返事をするのが精一杯だった。
 やはり試合では活躍することができなかった。相手選手の流れるような体の動きを把握することができても、体が反応することができなかった。ボールを受け止めることも、パスすることも満足にできず、そのたびにコートに吊橋が現れた。郵太郎のミスが失点につながった。最後の試合は出場を断った。代わりに出た新入生の男性が活躍して、春子のチームは初勝利した。
「また人が変わったみたい」と佐藤春子は言った。
彼女はうつ伏せになり、自分の腹の下にボールを入れて、体を左右にリズムよく揺らしながら、鼻歌を歌っていた。
「何かあったんですか? 話、聞きますよ」
「何もない。ただ睡眠不足なだけだ」
「すごいクマですもんね。叶わぬ恋でもしてるんですか」
 と言って彼女は自分の言葉に笑ったあと、
「話したくなったら連絡ください。言葉にするだけで心持ちは変わりますよ」
 と言った。郵太郎はその言葉に静かにうなずいた。
 そのまま飲み会の開催となったが、郵太郎は断り、アパートへ帰った。
 その日の夜、孤独をこらえることができず、ベッドで体を丸めて泣いた。回虫を舌で触りたい、飲みこみたい、胃で感じたい、と何度も思った。ひとりにしないでくれ、吊橋から解放してくれ、と願った。
 回虫がいた日々を思った。記憶をさかのぼり、ゴンドラで奈緒に回虫を飲みこませた瞬間を思い出した。この世界で生きることを許されたと感じた瞬間の記憶だ。しかしその記憶が孤独を癒やすことはなかった。叫び出しそうになる気持ちを押し殺すために、親指を噛んだ。回虫の感触を探して、人差し指を舐めた。
 奈緒がいるから回虫が奪われるんだ、とふと思った。奈緒がいなくなれば回虫はずっと俺のものだ。寂しさも不安も感じない。どうやって回虫を取り戻そうか、と考えた。みぞおちを殴って吐き出させればいいのか。包丁で腹を割けばいいのか。
 あと一週間耐えられるか自問した郵太郎は、無理だと実際に声に出して言った。吐き出された言葉は深夜の闇へ吸いこまれた。夜と朝の境目がきて、ようやく眠ることができた。
 学校にはもう行けなかった。バイトも無断で欠勤した。外に出て、人に会うのが怖くなった。どうして回虫を飲み込んでいないのに堂々と外を歩くことができるのだ、と窓の外の道を歩いている人や、テレビに映っている人を見て、郵太郎は不思議に思った。
 ぼうっとしていると、部屋の呼出しベルが鳴った。十九時だった。無視したが鳴り続けた。ドアののぞき穴から奈緒が立っているのを見たとき、心の底からうれしくなった。あいまいな視界のなかで奈緒だけがはっきりと見えた。
 回虫が、奈緒に乗って来てくれた、と郵太郎は思った。部屋に入ると回虫は奈緒に、
「一週間どうだった? 大学にもサークルにも顔出してないみたいじゃない。春子ちゃんにそう聞いたわ」
 と言わせた。
「君がいないと寂しくて不安な気持ちになるんだ」
 と郵太郎は彼女の腹にいるはずの回虫に言った。回虫は奈緒に、
「そうでしょ」
 と言わせた。そして、
「今日は、してるとき、あなたが口に含んでてもいいわ」
 と回虫は彼女に言わせた。
 回虫は奈緒に彼女が着ている服を脱がさせ、胃を絞り上がらせた。回虫は喉を登り、彼女の口内に姿を見せた。郵太郎は奈緒に口づけをした。回虫は奈緒に自身を舌で押し出すように操った。
 回虫のすべてを口のなかに含むと、世界は動きを止めたように思えた。吊橋は消え、足もとは確かなものとなった。生きている意味も、奈緒との心のつながりも必要ない。体に活力があふれた。そのまま彼女を抱いた。
 交わっているときに奈緒のことは考えなかった。口のなかで身をよじらせている回虫に気持ちは集中した。その体を、舌先、舌ぜんたい、唇、歯、歯茎、口蓋を総動員して確かめ、味わった。唾液を絡ませる。くちゃりくちゃりという音が脳内に響くたびに、興奮は高まっていった。奈緒の肉体と交わっている感覚は薄れていった。回虫が舌の根で身をよじらせたときに郵太郎は射精に導かれた。意識が途切れた一瞬に、回虫は喉の奥へと落ちていった。
 郵太郎の口に回虫がいないことに気づくと裸の女は最初は半笑いで、二度目は真剣な口調で、
「返して」と言った。
「回虫が自分から喉に入っていったんだ。俺のほうへ入りたがってる」
 郵太郎の言葉を女は聞き流し、
「いいから、返して」と能面のような顔をして言った。
「もう五分だけ」
 と郵太郎は言い、いまの感覚を覚えておこうと必死になった。強く目を閉じて胃の表面に意識を集中させた。回虫が動くのを感じる。ひとりじゃない、と思った。目を開くと、目に見えるすべてがはっきりとした輪郭を持ち、郵太郎から遠ざかった印象を受けた。目の前の裸の女の声がひどく遠くから聞こえる。
 女は何度もおなじように口を動かしていたが、やがて隣に横たわる郵太郎の頬を平手打ちし、
「いい加減にしてよ。あなたなんてどうでもいい」
 と怒鳴った。そして郵太郎の首を両手で力強く締めた。女のこめかみには太い血管が浮き出ていた。郵太郎は女の細い腕を掴み、首から離すと、乱暴に振りほどいた。壁に女は頭をぶつけた。裸の女は、
「はやく返せ」とつぶやいた。
「返さないと、どうする?」
 郵太郎はそう訊いた。
「あなたを殺してやる」と女は涙を浮かべながら、微笑して言った。
「俺よりも回虫が大事だってことか」
「そうよ」
「俺も、そうだ。君よりも回虫を求めてる」
 女は郵太郎のその言葉に微笑し、
「回虫のいない生活なんて考えたくもない。鏡も見れない」
 と言った。理由を訊くと、女は髪をかきあげ、
「不完全だからよ」と言った。
郵太郎はその言葉にうなずいた。回虫がいないと、鏡に映る顔や姿を見たくなくなる。本来の自分の偽物に思えてしまうからだ。
「私たちの関係は変わったのよ」
 と女が言うと、ふたりは黙った。
「一緒に住まないか? そうすれば交換の間隔を短くできる」
 郵太郎の提案に女は首を横に振った。
「そういう問題じゃないのよ。わかってるでしょ。私はずっと飲み込んでいたいの。だから返して。返さないと何をするかわからないわ」
 郵太郎はベッドから出て居間のドアに向かった。女が尋ねた。
「どこへ行くの?」
「トイレに吐き出しに、いまは君が持つ取り決めだから。交換についてはまた話し合おう。きっと解決方法があるはず」
「そうかしら」
 郵太郎はドアノブを握り、ベッドを一度だけ振り返った。体の線がきれいな裸の女が、動きの止まった世界のなかで静かに横たわっていた。
 トイレで寄生虫を取り出した。あらゆるもののくっきりとした太い輪郭は消え、漠然とした不安をふたたび抱いた。
 右手で大事に回虫を包むと、トイレを出て、居間に戻った。奈緒は壁際を向いて寝ていた。郵太郎は掌で回虫のかたちを楽しんでいると、ベッドのそばでブランケットを踏んだ。さきほどの言い争いのときに床に落ちたのだ。悪い予感がした。そのとき奈緒がブランケットを自身の体にかぶせようと強く引っ張った。重心を移動させていた途中だったので、郵太郎は大きな音を立てて転んだ。
 背中から床に落ち、テーブルの角に頭をぶつけた。ぐちゅり、と音がした。ずれたテーブルは本棚に強く当たり、飾ってあったフットサルサークルや奈緒との写真を貼り付けたコルクボードは、落ちて割れた。奈緒は驚いて起き上がった。
 右手で頭をぶつけた場所をさすった。どろりとした感触があった。掌は血で赤く染まっていた。その血のなかで、回虫は死んでいた。
「回虫!」と奈緒は叫んだ。
 ベッドを飛び出し、郵太郎の右手をまじまじと見た。回虫のまわりだけ、その体液で血が薄まっていた。
 回虫は死んでいた。握りつぶしてしまったのか、床に手をついたときに押しつぶしたのか、とっさのことだったので郵太郎にはわからなかった。郵太郎と奈緒を通り抜けた、古来より人間の内側を知り尽くした回虫は死んだ。郵太郎は呆然とした。
「何してんのよ」
 と奈緒は静かに言った。少しだけ大きな声でもう一度繰り返した。三度目は体ぜんたいの力を振り絞って叫んだ。叫び終わると彼女は静かになり、ぼうっとした。涙が目尻からこぼれた。
「お前が殺したんだ」と奈緒は言った。
「ブランケットを急に引っ張るからだ」
「お前が殺したんだ」
「事故だ」
「お前が殺したんだ」
 奈緒は澄んだ声で繰り返した。
 頭の傷口のまわりに鈍痛を感じる。血の滴が頭皮を這い、耳の前を通り過ぎ、顎をつたって床に落ちた。ふたりは見つめ合い、黙った。赤い点が床に十個できたとき、奈緒は突然立ち上がり、郵太郎の右手から血まみれの死んだ回虫を奪い取り、口に入れて飲み込んだ。郵太郎は彼女が服を身につけるのを裸のまま見ていた。奈緒は、
「さよなら」
 と言って、居間のドアノブに手をかけた。その後ろ姿に向かって郵太郎は、
「新しい回虫を手に入れよう。二匹手に入れて、お互いの体を通り抜けさせればいい。お互いに一匹ずつ飲み込める。もう孤独は感じないはずだ」
 と言ったが、奈緒は振り返らずに、
「私とあなたの分身が死んだの。私とあなたの関係も終わり。だから、さよなら」と言った。
 奈緒が出ていった玄関のドアをしばらく見つめていた。彼女はもう二度とここには来ないだろう、と郵太郎は思った。
 血が床にたまっていた。タオルで傷口を押さえ、郵太郎は病院へ向かった。傷口の感覚がだんだんと研ぎ澄まされていった。
夜空の星が珍しくきれいに見えた。じっと見つめると、あちこちに星があることに気づいた。涼しい風に背を押されながら、とぼとぼと歩いた。

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