回虫のように 2章
香ばしいパンの匂いで目が覚めた。時計は十時過ぎを示している。ベッドから起き上がると、奈緒が朝食を用意していた。おはよう、と声をかけると奈緒は、
「クローゼットからこれ借りた」
と言い、赤い上下のジャージを示した。高校のサッカー部のジャージだった。
郵太郎は洗面台で顔を洗い、トイレに入った。便座にすわると、肛門に寄生虫の感触が残っていた。奈緒はクローゼットからジャージを取り出した、と言った。小瓶に気づいた可能性を疑ったが、すぐに否定した。見つけていたら、いまごろきっと騒いでいるはずだ。
脚の低いテーブルでカリカリに焼けたトーストとプチトマトの入ったサラダを食べ、紙パックの野菜ジュースを飲んだ。東京は気温が高くなり、あたたかくなるでしょう、とテレビ画面に映る天気予報士は告げた。池袋のアパートの窓に明るい陽光が差し込んでいる。
朝食を終えると奈緒が用意してくれたコーヒーに口をつけてから郵太郎は、
「病院に行く」と言った。
「私も行く」
「昼まで時間をつぶしてくれないか。ひとりで行きたいんだ」
「知られたくないことがあるから?」
郵太郎はうなずいた。奈緒はゆっくりとまばたきをしてから言った。
「私たち二十四時間いっしょにいたことがないの。付き合ってから半年もたつのに。夕方に会って夜を過ごしても、あなたは朝すぐに帰る。旅行も日帰り。だからあんな歯の浮くようなセリフを言ったのよ。診察室には入らないから」
「一日中いっしょにいることは、そんなに大切か?」
「だって、付き合って半年も経つのよ」
「わかったよ」
奈緒のことは好きだったが、たまに見せるわがままに一日付き合うことが郵太郎にはできなかった。
食器を洗うと外出の準備をした。奈緒がトイレに入っているあいだに、クローゼットのダッフルコートの内ポケットから小瓶を取り出した。小瓶のなかのそれは死んでいるように見えた。が、軽く揺すると、ゆっくりと体の先端を動かした。生きている。それが身をよじらせるだけで、自分がまるで他人の夢のなかにいるように思えた。小瓶をそっとジーンズのポケットに入れた。
風邪で熱が出たときに一度だけ利用したことのある池袋駅のメトロポリタン口の近くの病院にかかることにした。アパートから歩いて十五分程度だ。住宅街を抜けて大通りに沿って駅に向かう。奈緒は郵太郎の腕を組んで歩いた。
平日の午前中の病院は混んでいた。サラリーマンや子供もいたが、大半が高齢者だった。受付をすませ、診察室の前のソファで名前を呼ばれるのを待った。
ソファの向かいに老人が座っていた。歯が不揃いの彼は力なく宙の一点を見つめ、アラーム音が鳴ると、もぞもぞと手を動かして、脇から体温計を取り出した。看護スタッフを探してあたりを見回した彼と目が合った。老人は笑った。卑屈な笑いに見えた。郵太郎と同じ目元にホクロがあることが気味悪かった。老人は何かを言おうと口を動かしたように見えたが、
「アカイユウタロウさん、診察室へ」
と小さく淀んだ声が聞こえたので奈緒を待たせて席を立った。診察室のドアを開けると、デスクの前の椅子に腰掛けた小さな老医者が、背もたれのない回転椅子にすわるように示した。郵太郎がすわると老医者はぼそっと言った。
「どうしたの?」
「寄生虫が出ました」
と単刀直入に言うと、老医者は背筋を伸ばして質問した。
「どこから?」
「肛門です」
と郵太郎は言って、ポケットから小瓶を取り出してデスクに置いた。ほう、と老医者はこれ以上ないくらいに目を大きく開いた。白目に濁っている部分があった。小瓶を手に取り、分厚い眼鏡を額にずらし、天井の光で透かすように見て、にやりと笑った。黄ばんだ歯が見えた。小瓶をデスクに戻すと老医者はあらためて郵太郎のぜんたいを眺めはじめた。白衣には大小のシミがあり、裾は汚れていた。ひひっと老医者は笑い、
「最近、ジャングルに行った?」
と愉快そうに言った。
「行ってません」
「アマゾンの奥地でもずんずん入っていけそうなくらい頑丈そうな体に見えるから、ふとそう思ったんだ。若者はどこで何をするかわからないからねえ」
老医者はもう一度笑うと、後ろを振り向き、女性のスタッフに、
「おい、トレー」
と言った。彼女が用意した腎臓のかたちをした銀色のトレーに、小瓶を逆さまにして、寄生虫を出した。老医者は寄生虫が小瓶を離れる瞬間にまた、ひひっと不快な声を出した。
「回虫(かいちゅう)だ。いまどき珍しい」
老医者は胸ポケットからボールペンを取り出し、目をひんむきながら寄生虫をつついた。郵太郎はずっと気になっていたことを訊いた。
「大丈夫なんでしょうか?」
「何がだ」
「僕の体は大丈夫なんでしょうか?」
「命に別状はない」
寄生虫をボールペンで突きながら老医者は続けた。
「しかし本当に珍しい。日本での罹患率は一パーセント未満だ。ほぼゼロに等しい。世界にはまだまだ何億人と罹患者はいるけどね。本当はジャングルに行ったんじゃないか。そうでなければ、どこかで回虫の卵の付いた生野菜でも食べたんだろう。衛生管理の行き届いていない国からの輸入品かもしれない」
老医者は銀色のトレーを持ち上げ、背後にいた若い女性スタッフに見せた。珍しいからよく見ときなさい、と老医者は卑しい目をして言った。彼女は嫌悪感を隠しきれていない表情で寄生虫を見て、それからその表情を郵太郎に向けた。郵太郎は薬について訊いた。
「飲み薬がある。それを飲めば、君の体から回虫はいなくなる。たとえ何匹いてもね」
「まだいるんですか?」
「可能性はゼロじゃない。成熟した雌の回虫は一日に何万個と卵を産む。想像してみてくれ。君の体のなかで、おびただしい数の卵から、小さな回虫が産まれる様子を。ああ、気持ち悪い。だが安心してくれ。現代の薬なら一度で皆殺しさ。一晩で治る。科学に感謝だ。そしてまだ君はいいほうだ」
うれしそうに話す老医者の言葉の続きを待った。
「回虫とは回る虫、と書く。どこを回るのか? 君の体さ。まず回虫の卵が口から入る。経口感染という。卵の殻は胃液で溶ける。生まれた幼虫は小腸の壁に潜り込み、血管やリンパ管に侵入して、体を回る。ああ、気持ち悪い。肺に到達した幼虫は肺胞に入って気道を上昇し、ふたたび口から飲み込まれて小腸に到達する。そこが彼らの住処となる。回虫、体を回る虫。引越し先の物件をくまなく内覧するかのようだ。あるいは、世界を旅して詩歌を詠む吟遊詩人のように。ひひっ。君より君の内側のことを隅々まで知り尽くしているはずだ。他人には知られたくない内面、君も知らない内面も見たかもしれないね。ああ、気持ち悪い」
郵太郎は気分が悪くなった。体を別の生物にぐるぐる回られたのだ。物理的に回られたのだ。ちなみに、と言って機嫌よく老医者は続け、
「回虫は古来より人間に寄生し、人間とともに歴史を歩んできた。人間と回虫は太古からの絆で結ばれている。人間より人間を知っているのかもしれない」
と自説を悦に入って言葉にした。話がずれてきたので郵太郎はあらためて訊いた。
「僕の、どこが、いいほうなんですか?」
「君は肛門から出した。出口だ。体に不必要なものを出すにはちょうどいい。回虫は体を回るんだ。だから鼻から出たり、くしゃみや嘔吐で口から出た症例も少なくない。考えてもみてくれ。肛門から出るほうが心理的ショックは少ないだろう。他にも目や脳に入り込んで障害を引き起こす例だってある。君はいいほうだと言った意味がわかるだろう」
喉を這い上がる回虫を想像してしまった。あまりにも気持ち悪い。
さて、と老医者は卑屈な笑みで顔に深くシワを作って言った。
「この回虫はどうしようか。記念に持って帰る? 君の内側を旅した回虫を。君の分身とも言えるかもしれない回虫を。現代に蘇りし太古の友を。おおげさか」
老医者は郵太郎を見ながら笑った。どうせ持って帰るはずがない、と決めつけている態度だった。会話の端々で小馬鹿にしてくる姿勢が気に食わなかった。老医者の思惑通りになるのが癪だったので郵太郎は、
「持って帰ります。僕がきちんと供養しますよ」
と言った。老医者の笑顔が一瞬だけひきつった。ピンセットで回虫を小瓶に入れるとき、身をよじらせている回虫に老医者は、バイバイと声をかけていた。受け取った小瓶を郵太郎はジーンズのポケットに入れた。診察室を出ると奈緒は、
「大丈夫だった? 顔色悪いよ」と心配して言った。
「たいしたことはないって。薬を飲めば治る」と郵太郎は答えた。
受付で会計をすませ、隣接する薬局に向かった。小さなソファで待っていると名前を呼ばれた。小さな仕切り板で区切られたカウンターのなかで、薬剤師の中年の女性はすまなそうに、
「申し訳ありませんが、珍しい薬ですので、すぐにはご用意ができません。お取り寄せには三日前後かかります」と言った。
日本で寄生虫にかかる人は一パーセント未満なのだ。郵太郎はうなずき、携帯電話の番号を教え、カウンターを離れた。奈緒を連れて薬局を出た。太陽は雲に隠れ、あたりは濃い影に覆われていた。奈緒は不思議な顔で言った。
「薬は?」
「いま切らしてるらしい」
「そんなことあるの。珍しい病気ってこと?」
「そうみたい」
「下半身の病気? 私、そういうのでも受け止めるよ」
「内科にかかったんだ。泌尿器科じゃない」
「何か症状はあるの?」
「副作用で、分身の術ができるようになった」
「冗談はやめて」
と真剣な口調の奈緒に、深刻な症状などなにもないことを伝えて安心させた。
奈緒が池袋駅北口に行きたい場所があると言った。歩きながら寄生虫の入った小瓶の捨て場所を考えた。自動販売機の隣のゴミ箱に捨ててしまうのは簡単だった。だが「分身」「供養」という言葉が頭をよぎり、実行できなかった。
「今日は何の日か知ってる?」
と郵太郎の腕に手を回して奈緒は訊いた。
「赤井郵太郎の誕生日」
「それとおなじくらい大事な記念日」
「わからない」
「半年記念日。私たちが付き合って。ちょうど半年」
「はやいね」
「だから特別なのよ、今日は」
池袋駅西口を通り過ぎ、交番を横目に、西一番街中央通りに入る。
奈緒は目的地のゲームセンターに着くと、プリクラを撮ろうと郵太郎を誘った。彼女はプリクラを撮ることが好きだった。プリクラ撮影機のなかに入り、百円玉を数枚入れると、軽快な音とともにアナウンスが始まった。恥ずかしがる郵太郎に奈緒は、
「ちゃんとポーズを取ってよ。この空間にプライドは持ち込まないで」
と言った。撮影が終わると、撮影機の側面に移動し、タッチパネルで写真を加工した。どの写真も肌が異様に白くなり、目は通常の三倍の大きさになっていた。奈緒に聞こえないように溜息をつきながら、ハッピーバースデーと写真に記入した。奈緒は印刷された写真を見て満足した。
コーヒーが飲みたくなった郵太郎は彼女に喫茶店に行こうと提案した。
ビルの二階にあるその喫茶店のドアを開けると、右側が長いカウンターになっており、左側には窓に面しているテーブル席がいくつか並んでいる。カウンターにもテーブル席にもまばらに客が入っていた。いちばん奥のテーブル席を選んだ。通りを行き交う人たちがよく見える。寄生虫に悩まされることのない幸福な人たちが歩いていた。
中年女性の店員が注文したコーヒーを運んできた。エチオピアの豆を使っているコーヒーだった。奈緒はコーヒーに口をつけてから、バッグから分厚い手帳と、さきほどのプリクラを取り出した。そしてプリクラを器用に剥がして手帳の最新のページに貼った。
郵太郎はテーブルにある白い小さな瓶から角砂糖をひとつカップに沈め、小さなカップに入ったミルクを弧を描くようにコーヒーに注いだ。黒い水面に白い筋が生まれた。寄生虫の姿が頭によぎる。すぐにスプーンでかき混ぜた。
奈緒はプリクラ手帳をぱらぱらとめくりながら、
「私は、プリクラで人生を記録するの」
とぽつりと言った。郵太郎は言葉の続きを引き取った。
「子供に自分の人生を見せてあげるため。プリクラ機の歴史的資料にするため。自分が死ぬか、プリクラ機がなくならない限り続ける、だろ」
「母親がどんな人だったかが、すぐにわかるでしょ。現在はその未来のためにあるの」
奈緒は手帳のいちばん新しいページを郵太郎に見せてから、トイレに席を立った。新しく貼ったシールの隣には、半年前のふたりが映っていた。そのシールのなかでも郵太郎はぎこちなく笑っていた。
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