回虫のように 6章

 ビルを出ると細く白い奈緒の指に、郵太郎は自分の指を絡めた。池袋の空はまだ明るかった。目の前の車道を車が行き交う。
郵太郎は奈緒に占いのプレゼントの礼を言った。
「占いによれば、あなたは今日、変わるのよ。たぶん私の前で」
「当たればね」
「当たるんだから」奈緒は笑顔をつくった。
「次も何か予定があるのか?」
郵太郎の問いに奈緒は、公園に行きたい、と答えた。
 南池袋公園のカフェを見ながら、貸出用のゴザを芝生に敷いた。公園の真ん中にそびえるけやきの樹の太い幹によりかかりながらカフェラテを飲んだ。ビルの谷間に太陽が沈みはじめ、街がオレンジ色に染まっていく。
「私、こういう一本の樹になりたいの」奈緒はそっと言った。
 若いけやきは枝を四方へ伸ばしていた。幹は太くどっしりとした印象を与える。奈緒の言葉の続きを待った。
「子供の頃、山で友達と遊びまわってた。私、四国の田舎で育ったのよ。あるとき急斜面で足を踏み外して転がり落ちたことがあるの。死ぬんだと思った。走馬灯がちゃんとよぎった。でも死ななかったの。崖の手前で一本の樹が受け止めてくれたの。体ぜんぶを。衝撃で意識は飛んだわ。目が覚めてから樹をあらためて見たの。しっかり大地に根を張り、たくましくて、美しかった。もし、あの樹がなかったら崖の下のゴツゴツした岩にぶつかって死んでたわね。だから、私はいつかこんなふうに誰かを受け止めることのできる一本の樹になろうと決めたの」
 奈緒は体の力を抜いて樹によりかかった。目を閉じた横顔は、世界を信頼しているような横顔だった。奈緒はそっと目を開けて郵太郎を見た。美しい視線だった。彼女はそのまま頭を郵太郎の膝に置いて横たわった。ポケットの小瓶のすぐ近くに彼女の頭がある。透きとおったふたつの瞳が真下からのぞきこんでくる。奈緒は、
「そんな記憶はある? 何かにまるごと支えられたような記憶が」
 と優しい声で訊いた。
「ないよ」
「ほんと?」
「君が燃やした」
 そうだった、と奈緒は笑った。「思い出して」とささやいた。
 記憶を巡ったがそんなふうに思える記憶はなかった。
「ないよ」郵太郎が答えた。
「羨ましいでしょ」誇らしげに彼女は言った。
「記憶があると役に立つの?」
「もちろん」
「どんなふうに?」
 ビルが赤く染まっていく。風がひとつ吹いた。奈緒の黒い髪が乱れ、彼女は口に入った髪を指ではらった。ピンクの唇のあいだから黒い髪の毛がするすると抜けた。

「落ち込んだり、自信がなくなったときに思い出すのよ。あの樹は私の体を支えた瞬間に、私の心のなかに根を張ったのよ。転がり落ちる心を受け止める大きな樹になったのよ。うまくいかなくたって、自分は支えられてるんだと思えるの。自分より大きくて、確かなものに。それは不思議な心のつながりよ。そういうのがあれば」と奈緒は言葉を切った。「生きる意味なんかいらない」
「それが、解決方法」
「そう」
 奈緒はほっそりとした指を郵太郎の唇にそっと当ててなぞり、
「ほんとうにないの? そういう記憶」
 郵太郎は彼女の顔を見下ろして、首を縦に振った。奈緒は、
「私が、なってあげる。あなたの一本の樹に」と言った。
「何をしてくれるの?」
「何をして欲しいの?」
 と奈緒は甘い声で問い返した。
「なにも思いつかない」
「嘘ね」
 風がまた公園を吹き抜けた。冷たい風だった。子供連れの家族は帰り支度をはじめていた。ビルの谷間に太陽が隠れはじめた。あたりがみるみる暗くなっていく。小さな声で奈緒が、
「頭、撫でて」
 と言ったので、郵太郎は言うとおりに撫でた。眠いのだろう。占いで集中したからかもしれない。ジャケットを脱いで彼女の体にかけてやった。奈緒はまぶたを閉じ、一定のリズムで呼吸をはじめた。
 公園の隅で種類の違う三匹の犬と三人の女性が世間話をしていた。そのうちのひとりが大柄な犬とキスをしていた。他のふたりも愛情を競い合うかのように犬と顔を近づけていた。
 犬や猫にも回虫は寄生する、というインターネットの記事を思い出した。豚やアライグマにも種に固有の回虫がいる。動物に寄生するはずの回虫が人体に侵入すると、成虫まで成長することができず、内臓や眼に侵入して障害を起こす例もある。幼虫移行症と呼ぶ。いまこの瞬間にも犬の口から飼い主への体内へと回虫の卵が移動しているかもしれない。
 奈緒を起こさないようにそっと小瓶をポケットから取り出し、彼女の顔の上に掲げた。いま彼女が目覚めれば、すぐに回虫を視界にとらえる。小瓶を郵太郎の顔に近づけると回虫の動きは鈍くなり、彼女の顔に近づけると頭と肛門をリズムよく壁に強く叩きつけた。回虫はリズムよく体を壁に叩きつけていた。奈緒の呼吸とおなじリズムだった。
彼女の顔ぎりぎりに小瓶を近づけたとき、突然あたりに大きな音が響き、奈緒は目覚めた。十七時を知らせる童謡だった。すぐに小瓶をポケットにしまった。
奈緒は体を起こすと、手で髪を整え、伸びをした。ふたりは冷えたカフェラテの残りを飲みながら、手を握りあい、お互いの生活のこまごまとしたことを語った。
 太陽が姿を消す頃、映画の話になった。最近公開されたスパイ映画だ。奈緒の写真サークルの先輩が、映画に出て来る風景を絶賛していた。山と湖と古城が完璧な構図で配置されている、とその先輩は力説した。ふたりは軽く晩御飯をすませ、その映画を見ることにした。
 サンシャイン通りまで歩き、脇道に入ってすぐの牛タンをメインにした定食屋に入った。テールスープに漂う白く細長い玉ねぎを、奈緒はおいしそうに食べた。
 サンシャイン通りの映画館でそのスパイ映画を見た。かつてイギリスの諜報機関に所属していた主人公が、テロ組織に人質にとられた恋人をあらゆる手段を駆使して助け出す、というよくある筋書きだった。高価な車が何台も爆破され、多くの人が死に、主人公は恋人を取り戻した。
 公園で話題になったシーンは中盤にあった。山に囲まれた湖のそばの古城から、主人公がテロ組織の下っ端を蹴散らして、黒光りするベンツで脱出するシーンだった。カメラ・アイはベンツから引いていき、青々とした山、静かな湖面、荘厳な古城をフレームに収めた。美しい光景だったが、胸を打つほどのシーンには思えなかった。
 印象に残ったのは、テロ組織の首謀者をテロ行動へ駆り立てた動機を説明する、回想シーンだった。首謀者の祖父は第二次世界大戦中にイギリスの軍人により残虐な拷問を受けた。
 顔に傷跡のある軍人は山の奥に大きな穴を掘り、毒蛇を底に敷きつめた。ゲリラ隊の居場所を隠していると疑われた民間人の祖父は裸にされ、両手をうしろに縛られ、舌が出たままに固定された。軍人は蛇が興奮する薬を祖父の舌に入念に塗り、穴に落とした。蛇は体中を噛み、やがて執拗にベロに噛みつき、そして祖父の体内に入っていった。祖父の遺体を家に持ち帰った当時少年だった首謀者は、祖父の口から出てきた蛇を殺し、仇討ちを決意する。
 奈緒はそのシーンで、郵太郎に手を重ね、
「あなたも蛇を殺すのよ」
 と耳打ちした。
 占いの館『ホウオウの寝床』で郵太郎の未来を占ったときに、山札からめくったカードの絵には、少年の体から出ていくように見える蛇が描かれていた。
 映画を見終えると、奈緒は映画館のロビーで急に、
「遊園地に行きたい。いい?」と言った。
「どうして?」
「爆破したくなったの」
「何を?」
「観覧車を」笑顔で奈緒は言った。
映画のクライマックスは観覧車の爆破だった。それを見て最後に観覧車に乗ったのが小学校だったことを思い出して、彼女は無性に乗りたくなったのだ。郵太郎も遊園地は久々だったので賛成した。冗談めかして彼女に訊いた。
「爆弾は持ってるの?」
「とびきりのやつよ」
 と言って奈緒は笑いながら郵太郎の肩を叩いた。郵太郎はそっとジーンズのポケットの膨らみに手を置いた。
 時間は二十時を過ぎていた。池袋からいちばん近い観覧車のある遊園地は後楽園にあった。閉園時間は二十一時だった。池袋駅まで足早に戻り、丸ノ内線に乗って、後楽園駅に向かった。

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