やさしさのひとつのかたちの話
「心のないやさしさは敗北に似てる」
ザ・ハイロウズの「青春」という曲にはやさしさについて触れている歌詞がある。ボクはこの言葉が好きで大事にしている。
よくわからないけど、とても大事なことを言い当てている、という予感がする。こういう予感のある言葉はなかなかない。
この歌を聞いてから、やさしさについて考える機会が増えた。心のないやさしさって何だろう、心あるやさしさって何だろう、と。
誰かにやさしくするときに、これは「心のない」やさしさじゃないか、と心配になる。
「心ない」やさしさについていろいろ考えると、最後まで寄り添う覚悟があるのかどうか、ということが大事なような気がする。だいじょうぶ、なんとかなるよ、などの言葉レベルの問題ではなく、それをどのような気持ちで相手に伝えるか、が重要なのではないか、と。
はじめて働いた会社で、いろいろと未熟なこともあってストレスを抱えすぎたことがある。やることなすことが自分とつながっていないような気がしてならなかった。
会社には産業医がいた。精神科医で、その業界では重鎮だという噂だった。どうしようもない状態だったボクは就業後に話を聞いてもらうことにした。この先生の接し方は、いまだかつて受けたことのない不思議な印象だった。
いまにも折れそうな細い老体を折りたたんで、「ああ、そう」みたいな相槌を打っているだけなのに、自分の抱えている醜い思いとストレスを思い切り叩きつけても、受け取ってくれるような佇まいだった。
「君は怒ってるね、私のお腹が痛くなるくらいに」
産業医はそう言った。体で話を受け止めてくれてるんだ、ホンモノだ、とボクは愚直に思った。どんな話をしても最後まで私は聞くよ、あなたの話はすべて受け止める、遮らない、どのような結末だろうと私は見届ける、という覚悟が、その佇まいからにじみ出ていた。
こういうのが「心ある」やさしさなんだとボクは振り返ってそう思う。
もうひとり同じような佇まいの人を知っている。彼は前職の部署がちがうマネージャー職で、文学、風俗、宗教、音楽などに精通していた。この人と会話をすることを楽しみに出社していた。
酒が好きで、人に興味があって、バーでおじさんと連絡交換をするような変な人だった。そしてぺーぺーのボクでも一緒に飲んでくれた。この人も最後まで話を聞くぞ、という佇まいをしていた。
「嫌ならさっさと辞めちまえ。他人なんか関係ねぇんだよ」仕事の相談をすると、きっぱりアドバイスをくれる人だった。
でも言葉とは裏腹に、「お前がどういう選択をして、どんな結末を迎えようが、俺はお前と酒を飲んでやる、だから遠慮せず生きろ」というメッセージを態度で示す人だった。
こういうやさしい大人になりたいと思った。
誰かにやさしくするならば、その人の結末まで寄り添う覚悟でしないとな、と心に決めている。これがまあ難しいのだけれど。
(了)
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