回虫のように 18章

 若くて背の高い医師は簡易ベッドにうつぶせになった郵太郎の傷口を確認して、
「うまく治ってますね。抜糸をします」
 と言い、女性スタッフが用意したハサミとピンセットで抜糸をは:た。痛みはない。処置はすぐに終わった。
「きれいに縫合されてます。これで終わりです」
 回転椅子にすわった郵太郎にそう言った。医師のデスクには銀のトレーがあり、黒ずんだ糸が数本並んでいた。じっとながめていると、身をよじらせるような気がした。その視線に気づいた医師は微笑しながら言った。
「記念に持って帰りますか? 友達に自慢するために持ち帰る子供もいますし、なかには怪我を軽く見ている上司や同僚に見せるために引き取るかたもいます」
 郵太郎は、
「これは僕自身の一部と言えますか?」と訊いた。
医師は一瞬だけ困惑した表情になったが、すぐに笑顔に戻り、
「そうとも言えますね」と答えた。
 ティッシュを一枚もらい、それですべての糸を包み、丸めてジーンズのポケットに入れた。会計を終えて病院を出ると、携帯電話に奈緒からの着信があった。十六時だった。
「いま、時間は?」
「あるよ」
「池袋駅メトロポリタン口のそばの喫茶店」
「十分くらいで着く」
「待ってる」
 別れ話だろう、と思った。何かを決断したような声だった。耳を撫でる微風を感じながら、店に向かった。
 喫茶店のドアを開くと、カランコロンと小さい鐘が鳴る。その音に反応したのは店員だけではなかった。奥のテーブルにいる奈緒が手を挙げた。隣にスーツの男性がすわっていた。ふたりの手もとにはそれぞれコーヒーとケーキがあった。
「お待ちしておりました」
 郵太郎が奈緒の差し向かいの席にすわると、寄生虫研究会の遠藤が言った。郵太郎が奈緒に視線をぶつけると、彼女は背中を丸め、一瞬だけ体を震わせた。彼女が口を開くとそこには、太く雄々しい回虫が舌の上に鎮座していた。


「借りることにしたの」と奈緒は回虫を飲み込むと言った。
「話が見えない」
 郵太郎がそう言うと、遠藤が軽く咳をして口を開きかけた。郵太郎はそれを手で制した。コーヒーでいいわよね、と郵太郎に確認した奈緒は店員にコーヒーをひとつ追加で注文した。彼女は郵太郎に向きなおり、話題を変えて、
「春子ちゃんはお見舞いに来た?」と言った。
「昨日来た。どうして春子にお見舞いに行くように言ったんだ」
「だってあの子、あなたが好きだから」
「春子は彼氏がいる」
「別れ話をすると言っていたわ」
 奈緒は手もとにあったチーズケーキをひと口食べた。これ新作なのよ、と言って彼女は郵太郎にもひと口すすめた。食べないと彼女が話を続けないように思えた。春子が持参したのとおなじチーズケーキだった。味は濃厚だが、時間経過のせいか、ほんのわずかだが表面の舌触りがパサパサしていた。
それに、と奈緒は話を続けた。
「あなたもあの子のことが好き。ふたりの様子を見てれば誰だって気づく」
 奈緒はそう言って微笑した。店員がコーヒーを持ってきたが、郵太郎は口をつけなかった。
「俺は奈緒とやり直したい」
「無理よ。私たちは回虫が死んだときに終わったの。あなたもそれをわかってるはずでしょう」
「別れ話か」
「半分は」
「もう半分は?」
「仕事の話」
 と奈緒は言った。遠藤は口を開きたそうしていたが郵太郎は無視した。コーヒーに口をつけてから奈緒は続けた。
「若いカップルが育てた回虫は高く売れるんだって。男と女を両方通り抜けた回虫のことよ。私もあなたも回虫の卵を飲み込んで、生まれた回虫を交換する。その回虫を買い取ってもらうの。こつこつバイトするのが馬鹿らしくなるほどのお金がもらえる。私たちにしかできない仕事よ。元カップルだけど、そこは大目に見てくれるの」
遠藤が我慢していた口を開いた。
「回虫の卵はこちらにご用意があります。無料でお渡しいたします。粉末状で無味無臭です。若いカップルの回虫は、恋愛が上手にできないかたや、青春を思い出したい老夫婦にたいへん人気です。ニーズがあるのですが、ご提供が難しい状況ですので、ご協力いただけると大変うれしいのです」
 と一息にしゃべり、満足した顔になった。奈緒は、
「でも回虫が生まれるまでは不安でしょ。孤独で寂しい気持ちで自分が押しつぶされそうになる。だからあなたも出産まで回虫をレンタルしたらいい。たくさん持ってきてもらっているから、選んで」
 と言い、遠藤に目配せをした。視線を受け止めた遠藤はかたわらのバッグからペットボトルを取り出してテーブルの中央に並べはじめた。カツンカツンと規則的に音がした。遠藤は作業を続けながら、次のように言った。
「女性の出産された回虫がよろしいかと思いまして、二十代、三十代、四十代の独身のかたの回虫を用意させていただきました。すべてオスになっております。卵を産まないのでご安心ください。出産した女性のお顔はお見せできませんが、細身等のスタイルにお好みがあれば、お申し付けください。多種多様なラインナップをご用意していますので」
 十個のペットボトルがテーブルに並んだ。他の席にすわる客の何人かがそわそわと視線を郵太郎たちのほうへ向けていたが、奈緒も遠藤も気にしていない。長さ、太さ、俊敏さ、活発さ、先端のかたちなどが異なる回虫が、透明なペットボトルのなかで身をよじらせていた。
 奈緒は細長い回虫の入ったペットボトルをつかみ、
「これなんかどう?」
 と郵太郎に手渡そうとした。遠藤が回虫の詳細について口をはさんだ。
「国際線の客室乗務員のかたが出産した回虫で、大人気です。彼女は回虫といっしょに生活をはじめてから仕事への不安が消えたそうです。このエピソードのおかげで、新社会人や転職されたかたのご購入が多いのです。元気でさっぱりとした回虫です」
 ペットボトルを受け取らない郵太郎に奈緒は、
「どうしたの?」と言った。
「必要ない」郵太郎ははっきりと言った。
「どうして? 誰ともつながってないという寂しさに耐えられるの?」
「耐えられないよ」
「じゃあ、なぜ回虫がいらないの? 顔も知らない人間の回虫は飲めないかしら。最初だけよ、そんなふうに感じるのは」
 ねえ、と奈緒は遠藤に同意を求めた。遠藤はゆっくりうなずいた。
「回虫を飲み込んでるとき、視界の奥行きがなくなったり、味が薄くなったりするだろ?」と郵太郎は訊いた。
「うん」
「感じる力を回虫に奪われてるんだ。あのまま時間が経てば、ただの回虫の乗り物になってしまうような気がするんだ。ひとつに依存してしまうのは危険だ」
「馬鹿なこと言わないで。そんなことあるわけないじゃない」
「俺にはそう思える」
「回虫なしで、どうするの?」
「感じるんだ」
「ほんとうの自分を?」
「自分以外のすべて、を感じるんだ」
春子が語ったように郵太郎は奈緒に語った。
「それでうまくいくの?」
「わからない。けど試してみる価値はある。不安はなくならないかもしれない。それでも新しいものを感じて、感じる喜びを深く味わうような生きかたを、俺はしたい」
 奈緒はペットボトルを握る手に力を加えた。ベコッという音がした。
「ねえ、お願い。そんなあやふやなこと言ってないで、私と協力して回虫を育ててほしいの。アルバイトすることを条件に、回虫を借りたのよ。買うとなると結構なお金がいるの。お願い」
 彼女は郵太郎の手に自分の手を重ねた。その手は固く、こわばっていた。
「回虫なしで、やり直そう」
「嫌よ。私は感じる力なんていらない。不安のまったくない生活ができるのなら。私はこの生きかたに納得してるの」
「そうか」
 郵太郎はそう言って立ち上がった。去ろうとする郵太郎の腕を掴んだのは遠藤だった。
「若い女性の頼みですよ。考え直してくれませんか」
 優しい口調と裏腹に腕に込められた力は強い。
「あなたには関係ない」 
「回虫を貸している。カップルの回虫が必要なんだ。協力してくださいよ」
 と遠藤は言った。希少な回虫を手にするチャンスを潰されたくなくて必死なのだろう。
「儲かるんですか、このビジネス?」
 遠藤の光り輝く腕時計を示して郵太郎は言った。
「人のための仕事です」
 と遠藤は言い張った。気に障ったのか腕を掴む力が強くなっていく。
「郵太郎がいないと回虫のバイトができない」奈緒が言った。
「回虫が出たら、渡すよ。チーズケーキにかけたんだろ。回虫の卵。俺が断った場合のために。どうやって回虫を回収するつもりなのかはわからないけど」
 郵太郎がそう言うと、奈緒は体を硬直させて目を見開いた。腕を握る遠藤の力もわずかにゆるんだ。
 郵太郎は掴まれていないほうの手で、ペットボトルの回虫の蓋を無言で開けはじめた。三つ開けると、次々に逆さまにして回虫をテーブルに落とした。
回虫はテーブルに着地すると、三匹それぞれのしかたで身をくねらせた。シンプルな体の器官を総動員して、いまの新しい環境を感じ取っているはずだ。恥ずかしげもなく堂々とした姿だった。感じる喜びはあるか、と回虫に心のなかで言った。
「何をするんだ」
 と遠藤は郵太郎の手を離し、回虫をもとに戻そうと慌てた。でっぷりとした腹がテーブルの縁にあたり、ペットボトルが倒れ、コーヒーがこぼれた。ペットボトルはテーブルを転がり、床に落ちた。周囲の客は、その中身を見て、思わず椅子から立ち上がった。
 郵太郎は騒がしくなった店内をあとにして喫茶店のドアを開けて外に出た。暗くなりはじめた夕暮れが空に広がっていた。通りに出ようとしたとき、乱暴に喫茶店のドアが開く音がした。
「貴様、待て」
 と遠藤の怒りに染まった声がした。商品としての回虫を乱暴に扱われたことを怒っているのだろう。頬が紅潮している遠藤の顔を見ると、郵太郎は通りを人混みの多い池袋駅のほうへ走って逃げた。あんな体型の人間に追いつかれることなどなかったが、全速力で走った。
 人混みをすり抜けていく。雑多な会話、都市の騒音が耳に流れ込んでくる。足を前に運ぶたびに、見たことがあるが決しておなじではない光景が広がる。地面を蹴る瞬間に、体にかかったわずかな重力を感じる。
 しばらく走ると池袋西口駅前の人混みのなかで、いきなり肩を掴まれた。走っていた勢いを殺すほどの強い力だった。
「何してんだ?」
 熊のように大きな人間の吉田健だった。社会人になって三ヶ月目の彼はもうスーツを着こなしているように見えた。その背中のうしろから、大村倫子がひょこっと顔を出し、元気? と郵太郎に訊いた。
「逃げ回ってます」
 郵太郎は後ろを気にしながら答えた。遠藤の姿は遠く、郵太郎を見失っているようだった。
「いいことだ。新しい世界がお前を待ってるぞ」
 と吉田は大口を開けて笑い、それから思い出したように、よく聞け、と言葉を続けた。
「俺たちがすぐ別れるって言ってたやつがいるらしい。わがままな性格同士だからうまくいかないって。そいつらのリスト、作っとけ」と郵太郎に指示した。
「作ってどうするんですか?」
「そいつらを集めて説教する」
「何をですか?」
「変わらないものなんてないってな」
 吉田は群衆のなかで高らかに宣言した。大村は両手を口にあてがって笑った。
「まだ仕事をはじめたばかりだが、俺は自分がこんなに無知だったとは思わなかった。いろんな場所にいろんな仕事がある。あたりまえだが、いろんな人間がいる。性格も変わる」
「知ったふうなこと言っちゃって。仕事をはじめてからこればっかり。私のことだって、ろくにわかってないくせに」
 大村の言葉に吉田は照れながら、
「うるせえ」
 と言い、彼女の頭に大きな手を置いた。大村はうれしそうに上目遣いで吉田を見た。にやけた顔を郵太郎に見られたことに気づいた吉田は急にしかめ面をつくった。
「あ、時間。もういかなくちゃ」
 と大村が腕時計を見て言った。ふたりはレストランを予約していた。じゃあな、と吉田は郵太郎の肩を叩いた。肩の骨のかたちを感じるほど強かった。
 郵太郎はそのまま池袋駅を北口まで走り抜けた。遠藤の姿はもうどこにも見えない。線路沿いを夕暮れと夜の間の空を眺めながら歩いた。
 まだ輝いていない白い月が空に浮かんでいるのに気づいた。満月かもしれない。目を凝らさないと気づかないだろう。池袋大橋の緩やかな階段を上がり、橋の中央から空を見上げた。月を見て、美しいと思ったのは、はじめてだった。
 そのことを春子に伝えたくなった。ポケットから携帯電話を取り出すと、何かがこぼれた。白い丸まったティッシュだった。なかに赤黒い短い糸があった。わずかな期間だが、郵太郎の一部だった糸だ。
 糸をすべて掴むと郵太郎は月に向かって掲げ、風を待った。一陣の風を体ぜんたいで感じたとき、手を開いた。赤黒い糸は宙に舞い、風に煽られ、空へ姿を消した。世界へ消えた。回虫のように、世界を回り、この世界を体ぜんたいで感じるように生きよう、と郵太郎は思った。

「もしもし」電話をかけると春子はすぐに出た。
「空に月が浮いてる」
 と、郵太郎は力強く橋を歩きながら言った。
「え?」
「空に月が浮いてる」
 ガラガラ、と勢いよく窓が開く音が春子の背後でした。
「ほんとだ。きれい」


(了)

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