結界としての業界用語

 書店で雑誌を眺めるのが、筆者の趣味の一つである。雑誌と言っても決まったものではなく、全く知らないジャンルのものをランダムに手にとってみるのだ。へー、こういう用語があるのか、こういうのがこの業界では価値があるんだなあ、といろいろ勉強になる。たまに、今まで想像もしなかった濃厚な世界観を持った雑誌に出会うと、小躍りしたくなるほど嬉しい。

 で、この間衝撃を受けたのが、とある若い女性向けファッション誌の表紙にあった「ねおんつぇる卒業!」の文字であった。ね…ねおんつぇる?モデルの名前なんだろうけど、うーむそうなりましたか、とつい腕組みして考え込んでしまった。最近、りゅうちぇるとかゆきぽよとかあいみょんとか、よくわからん平仮名名前が増えたなと思ってはいたのだが、ついにねおんつぇるですか。自分がおっさんであることくらい十分わかっているつもりであったが、ずいぶん遠ざかっちまったなあ、と妙な疎外感、そしてなぜかイラッとする感じに囚われたのであった。

 この「疎外感」と「イラッ」の正体は何だろうか。いわゆるキラキラネームを見たときの「イラッ」とも、微妙に異なる気がする。あれは、解けるはずのないクイズをドヤ顔で出されている感覚に近いと思う。こんな読み方がわかるわけねえだろ、訳のわからねえ漢字を入力したり検索したりする人の迷惑も少しは考えろ、という思いだ。

 「疎外感」を感じるのは、この言葉のセンスがわからない奴は、我々の領域に入ってくるな、という意思がそこに漂うからだろう。「アグリー」とか「バジェット」とかいうビジネス用語を聞いた時にイラッと来る、あの感覚だ。素人としては、馬鹿野郎、普通に日本語で「賛成」「予算」と言っときゃいいじゃねえかと思うわけだが、いやいや微妙にニュアンスが違うのですよ、意味を深く知った上で使い分けているのです、と彼らは言うだろう。

 要は、「業界用語」というのは、そのニュアンスを汲み取れる者だけを仲間と認め、そうでない者は締め出すという、一種の「結界」の役割を果たしているのだと思う。我々の仲間に入りたければ、それ相応の勉強をしてから来い、というわけだ。若手のアーティストやモデル、バンドの名前が正直わけのわからんものになっているのも、やはりおっさん除けの「結界」なのだろう。

 この意味で「業界用語」は、「専門用語」とは意味合いが異なる。後者は仲間内のコミュニケーションを円滑に進めるために使われるが、前者は部外者の排除、そして仲間の結束力強化のために使われる。

 筆者の妻は声楽家だが、見ていると彼女たちは「ドレミ」という言葉をまず使わない。「C(ツェー)」「D(デー)」などと、ドイツ語の音階名でやりとりするのが当たり前であるようだ。もちろん技術的な必要性もあるのだろうが、音楽の専門教育を受けた人間であることを示す意味合いもあるのだろう。少なくとも傍目からはそう見えるし、うっかりドレミファとか言ってしまうと、影で「ププッ、いやあねえ素人は」とか笑われちゃうんだろうなという恐怖は感じてしまう。

 もちろん、筆者も「中の人」として業界用語を使うことはある。記事を書く場合など、こうした表現には細心の注意を払わねばならない。たとえば化学の研究紹介の際、「この化学物質を合成し~」といった表現は使わない。書くのならば「この化合物を合成し~」という言い回しになるだろう。化学者にとってはこの世の全てが「化学物質」であり、ぼんやりした印象しか与えないから、研究者の間ではまずこの言葉は使わない。

 こういう「まあ意味は一応わかるけど、うちらはそういう言い方はしないよね」みたいな表現を使ってしまうと、「ああ、こいつは分かってねえ奴だな」となり、一気に記事の信憑性がガタ落ちになる。書き手として、非常に怖いところである。

 といっても、業界用語の発達は、今に始まったことではない。昔の学者がラテン語を使っていたのも、学生運動で特殊な漢字が使われたりしたのも、同じ範疇に入る事柄だろう。

 ただこうやって業界用語が発達しすぎ、参入障壁が上がっていくと、やがてその業界は新陳代謝が止まり、衰退へ向かう。最近のラノベのタイトルが異様に長くなっているケースなど、その兆候が現れているんではと思う。ちなみに小説投稿サイト「小説家になろう」で、現在ランキング1位の作品のタイトルは「おい、外れスキルだと思われていた《チートコード操作》が化け物すぎるんだが。 〜実家を追放され、世間からも無能と蔑まれていたが、幼馴染の皇女からめちゃくちゃ溺愛されるうえにスローライフが楽しすぎる〜」らしい。筆者はこの方面には全くうといが、相当いろんな文脈を知っていないとまるきり楽しめないんだろうなと、タイトルだけで全力で尻込みしてしまう。

 得意げに業界用語をひけらかすほどいやらしく、業界の衰退に貢献する行為もない。専門領域とそれ以外をつなぐ筆者のような仕事ほど、気をつけねばいかんと自戒する次第なのである。

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