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murmuring note no.11

想像してみよう。ある事象が究極の非合理、つまり合理的なものは一切ないとする。だが同時に、それが究極的に合理的だとする。なぜなら、存在するものは現実に適合して無条件に合理的だから。ヘーゲルに倣えば、合理的なものは存在する。存在するものは合理的。
この合理的なものと非合理なものの両立という絶対的矛盾が受け入れられてしまえば、事象はいかなる批判からも免れる。ただし、この事象は空虚という高い代償を払うことになるが、事象としての存在は安泰である。こうなれば、特定の場所にあるすべてがよそから移入されたものだと指摘されたとしても動揺することはない。真に土地に根付いたものはない。だから、あるものが持ち込まれたと非難されれば、それを外せばよい。何(たとえば国民)もない空虚で結構、その空虚を永久所有できるなら、という訳だ。
しかし、これはアートにとって由々しき事態ではないか? 中心の空虚(何もない)は虚無(無しかない)に通じるから、アートと反りが悪い。空虚に肯定的な要素はない。よって、どのような事象も否定的(虚偽)であり、空虚を証明する。ところが、ここで論理が逆転する。だから何でもよいという論理なき(ムチャな)口実に飛躍するのだ。
これが、アートの自然なヒエラルキーを踏みにじる。地域振興に役立つなら、どんなアートでもOK。むしろ、表現はニヒリスティックでないと困ると苦情を言う役人の理屈と同じだ。こうなれば、価値が均一化されたアートは空虚の埋め草となる。世界は空虚なのだから、アートに何か肯定的なものが混じってはマズいのだ。これが、中身のない箱もの行政が消えない理由である。
これにより、コンテクストが無意味であることが望ましくなる。物事の大前提が空虚=虚無であり、それを規定するコンテクストに意味は必要ないからである。この無意味こそ、日本にアイデンティティを割り当てる保守=反動のイデオロギーである。プリミティブや土着は、空虚の目眩ましの花火にすぎない。その裏で、保守=反動が支配権を拡張していく。

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美術評論家