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ど田舎の高校生と、イームズと。

先月、ビンテージイームズのアームシェルとワイヤーチェアを購入した。

今から20数年前、90年代後半に、「ミッドセンチュリーブーム」というものが日本で巻き起こった。1940〜60年代を代表するデザイナー、チャールズ&レイ・イームズや、ジョージ・ネルソン、エーロ・サーリネンらが発表したミッドセンチュリーモダンと称されるデザインの椅子や家具の再評価だ。

当時高校生だった私は精一杯背伸びして、イームズのシェルチェアに″似た″60年代製、クリーム色のFRPの座面にコロ脚のついたアメリカンビンテージの椅子を買った。1950年代にイームズが発表したシェルチェアのムーブメントからFRP素材の量産化が進み、他社からも発表されたものの類だと思う。イームズではないけれど、存分に″イームズっぽい″デザインと、1960年代のもの、という未知の時代のロマンに胸が高鳴った。頑張ればなけなしの貯金で手が届くセール価格(確か3万円くらい)に、30分くらい悩んだ挙句、やっと勇気を出して店員さんに「これください」と伝えた。思えば、これが初めて自分で椅子を買うという経験だった。カルチャーやインテリア、ファッションに対する興味の目覚めの只中にいた。

そんなこんなで、広島の中でもドがつくほどの田舎の山間部で暮らす高校生の部屋に、あのミッドセンチュリーがやってきた。座面に浮き出たグラスファイバーのスジを「これだよこれ」なんて思いながら手でなぞってみたり、遠くから眺めてみたり、意味もなく何度も座ったり立ったりを繰り返した。以来、このイームズっぽい椅子は受験勉強でも、成人後の東京での生活でも、結婚し子供が生まれた現在の広島の住まいでも、私の近くにあり続け、私の尻を支え続けている。

なぜだろうか。昨年頃から唐突にまたイームズのアームシェルが気になりだしたのは。

そんな折、対で揃えていたダイニングチェアの片方が経年劣化で壊れてしまい、買い替えのタイミングがきた。さらに、仕事で撮影場所としてご協力いただいた広島のShinktankというインテリアショップにはビンテージイームズがズラリ、という追い討ち。さらにさらに、その少し後の東京出張の合間に立ち寄った新宿伊勢丹では「Eames Office 80years of Design」という展示に出くわすとなれば、これはもう神様が買えと言っていると思うほかないのである。一体誰に言い訳しているのかわからないが。

▲広島PARCO「CHRISTMS ズキューンMARKET」のファッション撮影にご協力いただいたShinktankさんにはビンテージイームズがゴロゴロ。


▲新宿伊勢丹「Eames Office 80years of Design」


かくかくしかじかで、神に導かれて20数年間の心の熟成を経てイームズが私の元にやってきたのでありました。

対になったセットで揃えるのも良いけれど、イームズのチェアはタイプ違いでコーディネートを楽しむのもまた楽しい。インテリアはいろんなアイテムを私たち夫婦なりのセレクトで寄せ集めて、抜け感を持ってスタイリングするのが好きだ。

▲ダイニング用に購入したのだけど、自宅は子供のものが片付かないので一旦事務所のアトリエに。チェアは今から60〜70年前のものと考えると、やっぱり普遍的で素晴らしいデザイン。


と、ここで気づきがあった。
物への愛着というのは共に過ごしたり使い込むことで育まれるものだけれど、物を手にしていなくても、思い入れは深まるのだ。今回の場合、私がイームズの椅子に最初に憧れた時から20数年という心の中での熟成期間があって、その間の″イームズっぽい″椅子と過ごした月日とともに、物を手にする前から愛着に近いものが育っていたように感じる。もちろんずーっと想い続けていた訳ではないにしろ、興味の目覚めの時期に深く刻まれた憧れの気持ちは、自覚している以上に深く強いものだったらしい。

ちなみに、自宅は娘のものが片付かないので購入したチェアはひとまず事務所のアトリエスペースに。自宅のダイニングチェアの壊れた方の代役は″イームズっぽい″あいつが務めている。

風の時代の価値観からすれば、物に執着するのはナンセンスなのかもしれない。所有せずにシェアしたり、メルカリで他者に所有のバトンを渡すのも今の時代らしいし、何よりエコで合理的だ。だけれども、思いを深く持てるものと一緒に過ごすことは自分だけのかけがえの無いストーリーになる。多く持つのではなく、深く持つ。そんな豊かさもまた良し、だと思う。

何にせよ、こんな昔話を語ること自体、すっかりおじさんになったのだということを認めざるを得ない。

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