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プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 下巻_マックス・ウェーバー著_梶山力、大塚久雄訳

【7冊目】
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 下巻
マックス・ウェーバー著
梶山力、大塚久雄訳
【諸々】
・個々人のレベルにおいて、時間やお金を払ってでも宗教を信じてきた理由としては、それが生活を豊かにしてくれていると、少なくとも感じていたから。
・宗教については全くの無知だったが、少しは理解がはじまったように思う。キリスト教は、旧約聖書&新約聖書?の解釈によって様々に変化していった。それらの隆興(=信者数)は時代背景により異なる。「キリスト教」と言ったとき、何か一つあるもののように感じられやすいが、あのキリスト教においても変遷があると、認識を改めさせられた。
・経典を信じ、それに従うという思想は、とても目的的な考え方になるのだろうと思った。つまり、目的があり、そのルールに記載されていることを順守さえすれば善悪は審判されず、好きに行動してよい、という発想。(サッカーは見ていてとてもそう思う。)ヨーロッパはとてもそういうところがあるよなあと思っていたが、キリスト教の影響なのだろうか。現在のヨーロッパの行動様式を少しは歴史的に考えるという視点を持つきっかけとなった。
【気になったところ抜粋&感想("→"以降)】
①イスラムのばあい、予定が神の二重の決断にもとづくとうする予定論ではなくて、宿命論であり、したがって地上生活の運命にのみ関係があって、来世での救いには何ら関係するところがなかったからである。
→自然環境の厳しい地域であればあるほど、その教義は厳格になる。何か見えない大きな力=自然=神であり、その力から部族や個人を守るためには厳格さが求められる。とするならば、科学技術によって、少なくとも日常生活の上では自然の厳しさを克服した人類が、これからも宗教を信じていくのであれば、それは相対的に言って緩い方向へ進むのもまた当然であろう。それは即ち、東洋の時代の予兆をも感じさせる(都合よすぎる解釈・・・笑)
②世俗内的禁欲のあの独自な形態が、すでに一七世紀の人々の目にも、あの資本主義「倫理」の重要原則の実践的確証と映じていた
→(一つの)プロテスタンティズムの倫理=(一つの)資本主義の倫理とも読めるような文脈。ここで注意したいのは、プロテスタンティズムの方が、長い歴史の結果生じた思想ということである。⑧の逆になるが、プロテスタンティズムの思想そのものが、資本主義の一部を含んでいるとは言えないだろうか。禁欲は何もプロテスタンティズムだけのものではなく、私的に言うと、禁欲は自己の目的達成のための精神的・物質的方法(=選択と集中)だと考えている。
③道徳的に真に排斥すべきものは、とりわけその所有のうえに休息することであり、富の享楽によって怠惰や肉の欲、なかんずく「聖い」生活への努力からはずれるような結果をもたらすことである。
→ユダヤが排斥されているのはこの”所有”についてかなりの誤解をされている部分も大きいのではないだろうか。
④全体として人生そのものの無邪気な尊重という傾向を示す古ユダヤ教の基調は、ピュウリタニズムの独自な特性とは遠くかけ離れたものであった。(中略)ユダヤ教は政治あるいは投機を指向する「冒険商人」的資本主義の側に立つものであって、そのエートスは、一言にしていえば、賤民的資本主義のそれであったのに対して、ピュウリタニズムはユダヤ教の倫理から、そうした枠に適合するもののみを採りいれたのである。
→古ユダヤの思想=人生そのものの無邪気な尊重、という思想は性善説なのだろうか。投機ではなく投資だと思うが。
⑤今日生産の「規格化」という資本主義の要求に形影似相っている、あの生活への画一化への巨大な傾向は本来「被創造物神化」の拒否にその観念的基礎をもっていたのである。
→ピューリタンの思想の抜粋とのこと。贅沢をしてはならないとの思想を追求すればこのような発想になるのかと驚き。
⑥芸術や遊技のためのみの文化財の快楽には、ともかく、つねに一つの特徴的な許容の限界がある。つまり、そのためには何らかの支出もしてはならない、ということなのである(中略)こうした生活様式の起源も、近代資本主義の多数の構成要素と同じく、一々の根についてみれば中世まで遡るのではあるが、それは禁欲的プロテスタンティズムにおいて、はじめて、自己の一貫した倫理的基礎を発見したのであった。それの資本主義の発展に対してもつ意味はきわめて明確である。
→日本人的に言えば、無駄遣いをするな。ということだが、財産は神に信託されたものなので、無為に使うなとのことだろう。大変に厳格。このような厳格さは、その理由を論理的に説明し理解する能力と、それへの社会の理解があって初めて可能になる。資本主義の発展は、論理の進歩と理解の普及によりなされたものとも言えるだろうか。
⑦一七世紀以来、「旧い愉しいイギリス」の代表者たる「貴族地主層」(スクワイヤラーキー)と、社会的勢力のいちじるしいい変転はあるがピュリタン諸層との軋轢は、イギリス社会の全体を縦につらぬいてみられる。二つの性格、すなわち、ありのままの素朴な人生の喜びを味わおうとする性格と、厳密な規律と自制のよって自己を支配し、形式的な倫理的規則に身を委ねようとする性格とは、イギリスの「国民的」の映像のうちに今日もなお並立している。
→「旧い愉しいイギリス」、日本の田舎に似ているのだろうか。一度訪れてみたい。
⑧禁欲は僧房から職業生活のただ中へ移され、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、機械的生産の技術的・経済的条件に縛りつけられている近代的経済組織の、あの強力な世界秩序を作り上げるのに力を添えることになった。が、この世界秩序たるや、圧倒的な力をもって、現在その歯車装置の中に入りこんでくる一切の諸個人ー直接に経済的営利にたずさわる人々のみでなくーの生活を決定しており、将来もおそらく、化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで、それを決定するであろう。(中略)禁欲は世俗を改造し、世俗の内部で成果をあげようと試みたが、そのために世俗の外物はかつて歴史にその比を見ないほど強力となり、ついには逃れえない力を人間の上に揮うにいたった。今日では禁欲の精神はー最終的にか否か、誰も知らないーこの外枠から抜け出てしまっている。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。(以下略)
→宗教が社会に適用され、それにより社会が発展し、結果として宗教の力が弱くなっているとのこと。それは一つ、宗教の目指すところが達成されたと理解すると怒られるだろうか。だが、その際にはやはり最近よく見られる、「基本」がない人々が多く生まれている。宗教回帰の流れになるのか、もしくは宗教がそのエッセンスを以てして新たな生活様式を生み出すのか。それはPCとインターネットの力によって一定の領域までは達成されるだろうし、その科学技術が開発されている途上であると考えている。

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