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宗教嫌いだった僕が、クリスチャンになったわけ
あなたは、宗教が好きですか?
もしかしたら宗教が好きな方かもしれませんね。
もしそうだとしたら、ごめんなさい。
僕は宗教がキライなんです(笑)。
宗教が嫌いなのに、僕はクリスチャンであり、牧師です。
「なんだそりゃ、わけわからん」と思われても当然のことですよね。
どうして僕はクリスチャンになり、牧師になったのでしょう。
どうして宗教が嫌いなのか
どうして宗教が嫌いなのかと言うと、僕の祖母が熱心に宗教を信じる人だったからというのことがあると思います。
子どものころは、「道場」と呼ばれるところに連れていかれ、よくわからない話を聞かされたものです。
祖母は優しかったし、良い人でしたが、その宗教はどうも好きになれませんでした。
胡散臭く、お金を集め、人をコントロールする場所のようにしか見えなかったのです。
これは、僕の性格なのかもしれませんが、僕は特定の物や儀式などに、意味を見出すことができません。
お守りだとか、意味の解らないお経を唱えることによって何かいいことがあるという話は、どうも好きになれませんでした。
祖母からの教えを受けて、僕の両親もそれを信じていましたが、僕は宗教というものに対して不信感と、嫌悪感を募らせていったのです。
キリスト教との出会い
そんな僕がキリスト教と出会ったのは、高校時代にミッションスクールに入学したことがきっかけです。
そこでは毎週礼拝が行われ、聖書の授業もありました。
クリスチャンの友人との出会いもありました。
それでは、キリスト教はどうだったでしょう?
雰囲気や教えている内容は違いますが、キリスト教もまた、どうしようもないほどに宗教でした。
仕方がありませんよね、宗教なんですから(笑)。
そこには、意味のわからない儀式やルールががたくさんあり、お金や権威が集められている場所のように思えました。
ただ、意外に思ったのは、聖書の先生からはあまりそういう雰囲気を感じられなかったことです。
ガチガチで、宗教的な雰囲気が漂う中で、聖書の授業はとてもいい息抜きとなっていました。
聖書の先生なのに、下ネタばかり話し、授業中には冗談ばかり言う先生でした。
聖書の話をしたことがあっただろうかと思うくらい、その時に学んだことは何も覚えていませんが、振り返って考えてみると、あの時の先生の生徒たちに対する姿勢から学んだことは大きかったのではないかと思います。
キリスト教の奥に見出した光
僕がクリスチャンになる決意をしたのは、高校卒業後アメリカに留学し、そこで繋がりを持った教会でのことでした。
きっかけは、そこで牧師をしていた元宣教師が無料で英語を教えてくれると言ったから。
後は、そこに行けば日本の食べ物が食べられるという単純な理由でした。
その教会には同世代の女の子もいたので、なんとなく行くのが楽しかったということもあります。
要は、教会に行っていたもともとの理由は、純粋に神さまとか、救いを求めていたのではなかったということです。
宗教が嫌いだった僕は、教会では議論ばかりしていました。
「イエス・キリストしか認めない」とか、「愛と言いながら人を裁くこと」、「教会という組織」など、キリスト教のあり方に疑問を持ち、そういう部分に反発していたと思います。
一方で、僕の場合は「神の存在」や、「神は愛である」ということに関してはそれほど引っかかることがありませんでした。
罪の概念を理解していくにつれ、「神が創造したはずのこの世界が、どうしてこんな酷い状態なのか」とか、「この世界はどうしてこんなに不公平なのか」ということがわかっていきました。
そうした対話の中で、ひとつ理解していったことがあります。
それは、僕が嫌いな宗教の部分は、キリスト教の表面的な部分でしかないということです。
仏教という宗教はあるけれど、その根底にはシッダールタという人の思想や哲学であったように、キリスト教の根底にも宗教とは違うものが存在していたのです。
そしてクリスチャンの中には、キリスト教の中にあるその本質的な部分に触れて変わっていく人たちがいました。
その人たちは、クリスチャンになった後も解決できない問題を抱え、人間的な短所も持ってはいましたが、どこか輝いて見えました。
しかめっ面で人を断罪したり、張り付けたような笑顔に、ヒステリックな喜びを演じる人たちにはうんざりでしたが、
弱さの中に強さを併せ持ち、困難の中でも平安を持って生きる人たちには、大きな魅力を感じました。
キリスト教の奥にあった、宗教とは別のもの。
それは、「神さまとの関係」でした。
そして、聖書の中で「福音(よい知らせ)」として表現されているものは、個人的な「神さまとの関係」なのだということに、僕は気づいたのです。
そして僕は、その個人的な「神さまとの関係」に憧れてクリスチャンになったのです。
イエス・キリストとの出会い
僕自身が、どの時点でイエス・キリスト出会い、個人的な関係が始まったのかということは、あまりよくわかりません。
僕の場合は、何か劇的な体験があったというわけではありませんでした。
奇妙なことではありますが、思い返してみると、神さまとの関係は僕がキリスト教を知るよりも前からあったようにも感じるのです。
でも、それを明確に意識するようになってから、その関係はより明確で、鮮明なものとなっていきました。
そして神さまとの関係は、大きな困難を乗り越えるたびに深まっていったように思います。
ある時、不思議な体験をしたことがありました。
浜辺を歩いていた時、突然「神さまが今、ここにいる」という強烈な実感を体験したのです。
神さまがいるのは当たり前のことなのですが、「今、ここにおられる」という体験を、「神の臨在」と言います。
僕はその時、何の脈絡もないところから、突然「神の臨在」を体験したのです。
その時僕は、神さまに呼びかけられているの実感していました。
ところが、呼びかけられていることはわかるのに、何を言われているのかがさっぱりわかりません。
そしてその臨在感は、わずか1分弱ほどの時間で消えてなくなってしまいました。
最近になって、神さまに聞いてみたことがあります。
「神さま、あの時僕に、何を語ろうとなさっていたのですか?」
神さまは、
「『目を覚まして、私のからだとして生きなさい』と言ったんだよ」
と教えてくれました。
その時の僕にはわかりませんでしたが、神さまのことばを知りたいと思った僕は、その頃から聖書について深く学ぶようになり、翌年には神学校に入り、3年後牧師となりました。
今は、「神さまから離れた状態(罪)」にある自分を見出し、「方向転換(悔い改め)」して「神さまとの関係を回復する(福音)」ことを、クリスチャンを含めたすべての人々に伝えることを使命として生きています。
その思いが皆さんにも伝わることを、心から願っています。
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