■信仰の成熟

私が牧師になって間もないころ、ゲストとして招かれた家庭集会で、洗礼を受けて60年近くになるというご婦人と話す機会がありました。「こんな新米牧師が、信仰の大先輩に聖書を教えるなんておこがましい」と思いながら聖書の学びを導いたのですが、すぐにわかったことがありました。「60年間、毎週教会に通ってきた」というそのご婦人は、聖書のことをほとんど知らなかったのです。

「私は現実的だから」という彼女には聖書の話は退屈だったようで、ことあるごとに嫁の愚痴がこぼれ、それでいて自分からその嫁を愛そうとか、そのことを祈るという発想はまったくないようでした。クリスチャンとしての成熟とは何なのか、改めて考えさせられることになった瞬間でした。

成熟とは何でしょう? 私たちはどうすればクリスチャンとして成長することができるのでしょうか? そして、私たちがクリスチャンとして成熟すると、どんな人になっていくのでしょう? 成熟したクリスチャンについて考えるとき、必ず思い出す聖書のことばがあります。

「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」(エペソ人への手紙4:13)

クリスチャンとして成長すると、私たちはイエスさまに似た者へと近づいていくのです。これは、多くのクリスチャンが知っていることだと思います。

ところが私たちは、イエスさまに似るということとは違う方法で、成熟度を測ろうとする傾向があります。たとえば先ほどのご婦人が通っていた教会では、礼拝の出席が第一とされ、それさえ守っていればいいと考えられていたようです。

他にも、聖書や神学の知識、教会での奉仕に対する熱心さ、救いに導いた人の数や、献金の額などがあたかも成熟さを測る基準のように語られることがあるように思います。それは確かに外から見えやすく、わかりやすいものかもしれませんが、それはイエスさまに似た姿だと言えるのでしょうか?

私たちはまず、イエスさまはどんな性質を持った、どのようなお方だったかということを知る必要があります。そこに私たちがたどり着くゴールがあるからです。

ゴールがわかれば、今の自分に足りないものが何かを知ることができ、そのために何が必要なのかということも見えてくるでしょう。「神の御子に関する知識」について考えることが、「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」ための手掛かりになるわけです。

さて、イエスさまが持っている性質の中で、最も大切なことのひとつは、父なる神さまを信じているということです。「成熟も何も、そんなのクリスチャンなら当たり前のことじゃないか」と思うかもしれませんが、これは多くのクリスチャンが驚くほどできていないことです。

先ほどのご婦人もそうでしたが、「神さまが問題を解決してくれると信じていないから、祈らない」「私たちを正しい方向に導いてくれると信じていないから、尋ねない」また、「神さまの導きが最善であることを信じていないから、従わない」ということが起こります。どうやら「信じる」ということばは、「キリスト教という宗教に所属します」くらいの意味で使われているようです。

神さまの存在や力は信じているかもしれませんが、悪霊どももそう信じて身震いしています(ヤコブ2:19)。それでは「父なる神さまを信じている」とは言えません。

イエスさまは、どんなときでも父なる神さまを信じていました。イエスさまはいつでも父なる神さまに尋ね、常に従い、父が子に示すこと以外は何も行うことができない(ヨハネ5:19)と言うほどでした。十字架にかけられる恐れと悲しみの中にあるときでさえ、神さまのみこころの通りになるよう祈り(マタイ26:39)、最後まで従いました。イエスさまは、神の存在を信じていたのでも、特定の宗教に所属することを表明していたのでもなく、父を信頼していたからです。

信仰の成熟について考えたとき、信仰とは「何かを真理だと信じこむ力」であるかのように捉えている人が多いように思います。そういう人たちは、信仰を高めるために聖書を学んだり、祈りに浸ったりして信じる力を高めようと頑張っているのですが、なかなか実らないようです。「信仰を強くするためには何をしたらいいのでしょうか?」と、筋トレでもしているような質問を受けることもあります。

イエスさまは、信仰がないことを叱り、「信仰があなたをいやしたのです」ということを言われるので、「信じる力を高めなければならない」と感じてしまうのかもしれません。しかし、頑張って信じ込もうとするのであれば、それは単に自己暗示か思い込みです。それでは、「癒されるかどうかは、私たちが信じる力次第」ということになってしまうのではないでしょうか?

イエスさまが私たちに示してくれた信仰とは、父なる神さまとの信頼関係でした。信頼関係ですから、私たちがひとりで学んだり、念じたりすることによって鍛えられるようなものではありません。信頼関係とは、相手のことを知り、ともに時間を過ごすことによって深まっていくものだからです。

いつでも、ともにいてくださる神さまを意識しましょう。そして、あらゆる時に祈りましょう。対話することなく関係を深めることはできないからです。そして、何をどうすればいいか常に訊ね、導きを感じたら、それに従って行動してみることです。

そうして、私たちの人生に神さまが関わってくださることを体験すると、神さまがどれほど信頼のおけるお方なのかということがわかってくるでしょう。その体験を通して、私たちはさらに困難な状況の中でも、神さまに従うことができるようになっていきます。私たちの信仰は、その繰り返しの中で成熟していくのです。

私はもともと内向的で、自分から人に関わるのはあまり得意ではないのですが、神さまが「この人と関り、愛しなさい」と命じられることがあります。ある時、みんなから煙たがられているらしい青年と出会いました。内心では、関わると面倒なことになりそうだと思ったのですが、導きを感じて、メッセージを送ってみました。

関わるにつれ、彼は何らかの発達障害とそれに伴う精神疾患があるらしいことがわかってきました。みんなから煙たがられていたのは、空気を読めない言動が原因だったのです。やがて彼はイエスさまと出会い、救い主として信じるようになりました。とはいえ、問題がなくなったわけではなく、相変わらず仕事は続かず、トラブルに巻き込まれることも多いようでした。

しかし数年後、家族を初めとして彼の周りにいる友人たちが、彼を通してイエスさまと出会い、救われるようになったのです。彼が住んでいるところは、近くに教会のない地域でした。彼が福音を伝えた人々は、まだ数人とは言え、少なくとも私が直接関わることなど考えられなかった人々です。このようなことが起こったのは、神さまの導きに従った結果だと私は信じています。

このような経験を通して、私たちはより深く、より大きなことに従っていくことができるようになります。従った結果、必ずしもわかりやすい祝福を刈り取れるとは限りませんが、少しずつイエスさまの身丈へと近づいていくのです。

私たちがより成熟し、イエスさまの身丈に近づくためには、私たちはより従順になる必要があります。そして、イエスさまが十字架の死にさえ従うほど、私たちも父なる神さまを信頼し、従順になるなら、私たちは神さまが創造した本来の姿を見出すことになるでしょう。

今は、からし種のように小さな信仰でも大丈夫です。まずは小さなところからでも、主に従って行動し始めようではありませんか。

【RAC通信】 - 2019.01.08号に掲載 

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