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教会に所属せずにクリスチャンになる方法-5

前回に引き続き、「教会」での集まりについてお話していきたいと思います。今回は、特に礼拝について話していきます。

4.礼拝

教会と言えば礼拝と連想するくらい、教会と礼拝は切っても切れない関係だと思います。
しかし、集まりによっては「教会堂ではないので歌を歌うことができない」とか、「説教をする牧師がいない」など悩みを抱えている人たちもいらっしゃるかもしれません。

でも、実は、多くのクリスチャンがイメージする礼拝の形は、そもそも新約の時代の礼拝とは違うものになっていることが多いのです。
別に、「だから初代教会と同じにするべきだ」と言うつもりなのではなく、「そんなのは後からできたものなのだから、本質的なところさえ押さえていればいいですよ」ということが言いたいわけです。

新約聖書時代のクリスチャンたちは、教会堂を持っておらず、それぞれの家で集まっていました。集まる人数や用途によっては、宮やシナゴーグ(ユダヤ人の集会所)に集まることもありました。

でも、旧約聖書の時代のように、生贄を捧げたり、律法について教えたわけではありませんでした。あるいは、祭司がいて荘厳な音楽の中で儀式や礼典を行ったのでもありません。

クリスチャンがそのような礼拝の仕方をするようになったのは、全て異教の宗教の影響を受けた後のことです。

では、新約時代のクリスチャンたちはどのように礼拝を行っていたのでしょう? 聖書の中にその様子を探してみましょう。

「それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。」(Ⅰコリント 14:26)

新改訳聖書2017

「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ 3:16)

新改訳聖書2017

「また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。
ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」(ヘブル10:24-25)

新改訳聖書2017

他にもあるそうですが、これが新約時代の礼拝の姿です。現代の教会で見る礼拝とはずいぶん違いますよね(笑)。

別に、初代教会のようにやらなければならないとは思いませんが、このやり方には優れた知恵と実践が詰まっています。逆に言えば、僕たちはムリをして、西洋化された宗教してのキリスト教のやり方に合わせる必要もないとも言えますよね。もっとみんなが自由に参加し、堅苦しくなく、気楽に礼拝すればいいのだと僕は思います。

パウロは礼拝をこのようにも定義しています。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)

新改訳聖書2017

礼拝とは、もっと身近で、曜日や時間に関わりなく、むしろ常に自分を神に差し出す姿勢のことです。
そして、イエスさまも、礼拝についてこのように言っています。

「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。』」(ヨハネ4:23-24)

新改訳聖書2017

どうでしょう?
礼拝がもっと身近なものに感じられませんか?

礼拝に祭司(牧師)が必要としたのは、異教の文化の影響です。(キリスト教の祭司は、旧約時代の祭司とは全く違う役割を果たしています。)
そして、日曜日に行うものでもなく、そして土曜日の安息日ですらなく、クリスチャンたちは毎日のように集まっていました。

「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」(使徒2:46-47)

新改訳聖書2017

次回は、集まりについてさらに具体的にお話していきたいと思います。

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