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神さまと生きるために知ってほしいこと 6章 新しい命とは?

イエス・キリストは十字架で命を投げ出し、僕たちの罪を贖って救いの道を開きました。
しかしイエスさまは、死から3日目に蘇ったのです。

―考えてみましょうー
3日目に蘇るなら、イエスさまはどうしてわざわざ死ぬ必要があったのでしょうか?



イエスさまが、私たちの罪を贖うために自らの命を犠牲にして下さったと考えたとき、私たちはイエスさまの愛の大きさに圧倒されます。
ところが、その3日目に蘇ったという話を聞くと、何だかそのありがたみが半減してしまうように感じてしまうかもしれません。
イエス・キリストの蘇りにはどのような意味があり、それは私たちとどのような関係があるのでしょうか?

1. 神さまの力の証のため

詩編16:1を読みましょう。

「あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。(詩篇 16:10)」

イエスさまの復活は旧約聖書の中にも預言され、イエスさまご自身も、自分がこれから死に、3日目に復活することを予言していました。
イエスさまが復活したことそれ自体が、神さまとイエスさまの力の表れであり、イエスさまが神であることの証でした。

2. 人が復活することの証のため

Iコリント15:13~17を読みましょう

「もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。(Iコリント 15:13)」

聖書には、私たちがやがて復活することが書かれています。
多くの人たちはそれを信じていませんでしたが、イエスさまはご自身が復活することを通して、それが本当であることを示しました。
イエスさまの復活は、ラザロを始め他の何人かの人々が経験したような、蘇生とは全く別のもので、天国で私たちが持つことになる“栄光のからだ”としての復活でした。
イエスさまの奇蹟によって蘇った人たちは、また死んでしまいましたが、イエスさまの復活は永遠のいのちをもった復活なのです。

復活した後のイエスさまは、魚を食べたり、弟子たちに幽霊ではないことを示しながらも、壁をすり抜けたり、短時間で長距離を移動するという、普通の人間では不可能なことをしました。
それによって、私たちが復活したときにどのような状態になるのかを、少しだけ垣間見ることができます。

3. 死ののろいを打ち破ったことの証として

Iコリント15:20~22、15:54~55を読みましょう

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。(Iコリント 15:20-22)」
「そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。『死は勝利に吞み込まれた。』『死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。』(Iコリント15:54-55)」

イエスさまの復活は、それによって死という呪いが打ち破られたことを意味しています。
人が命の源である神さまから離れた時、死という呪いを受けました。
でも、神さまから離れたことがないイエスさまには罪がありません。
そのイエスさまが、私たちの罪を贖って下さったのです。

イエスさまが本当に罪の呪いを贖ったなら、死はその力を失ったはずです。
イエスさまの復活は、死の呪いが打ち破られたことを意味しているのです。

「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(ヨハネ 11:25-26)」

―考えてみましょうー
救いを手にしたなら、復活した僕たちは千年王国に住み、その後新天新地(天国)で永遠の時を過ごすことになると聖書には記されています(黙示録20-22章)。天国とは、どのような所だとが思いますか?

<コラム:天国ってどんな場所?>

ある人は、永遠に休むことができる場所だと信じます。
ある人は、天国ではずっと賛美を歌っていると信じています。
それぞれに聖書的な根拠もありますが、それは天国の部分的なイメージです。

永遠に何もしないで休んでいるのだとしたら、天国はとてつもなく退屈で、つまらない場所になるでしょう。
ずっと賛美だけしているとしたら、歌が好きな人には素晴らしいですが、歌が好きでない人には苦痛になるでしょう。

すべての人にとって完璧で、素晴らしい世界とはどんな世界でしょう。
それは、最初に創られた世界、エデンの園です。
神さまが創ったこの世界は、もともと神さまが良かったと思えるような素晴らしい場所でした。

イエスさまが天に帰って用意している新しい世界もまた、それに近いところなのではないでしょうか。
そして、天国がエデンの園と近いものであるならば、そこには世界を管理するという、もともと私たちに与えられていた仕事も存在するのではないかと思います。

私たちが最も幸せになれるのは、私たちが本来創造された自分として生きる時です。
それぞれに与えられた目的と使命があるのであり、それがフルに活かされることが、私たちにとって最大の幸せなのです。
天国が素晴らしい幸せにあふれたものならば、天国には私たちの個性や才能を活かせるようなたくさんの仕事があることでしょう。

さて、天国のイメージが変わると、この世界で生きる生き方も変わってきます。
天国が休む場所であるならば、生きている間は辛くても苦しくても耐え続け、ギリギリまで働き続ける生き方が正しい生き方ということになるかもしれません。

天国が賛美する場所であるならば、今の内から歌が上手になっておかないと、天国で恥ずかしい思いをしてしまうでしょう。
しかし天国が、創造されたままたの私たちとして生きる場所であるなら、私たちは今からでも、その生き方に近づくことができます。この世界で生きる喜びを探し、見つけ、味わうことも可能なのです。

今生きるこの世界は、天国に行くまでの練習の場所です。
天国ではよりその力が活かされ、深まり、広がるとしたらのですから、それは何と素敵なことでしょう。
これもまた、聖書の言葉をヒントにしたひとつのイメージでしかありません。
天国では、私たちの想像なんてはるかに超えた、素晴らしい世界が待っていることでしょう。
楽しみですね!

4. 新しい命に生きる道を開くため

Iペテロ1:3を読みましょう

「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。(Ⅰペテロ 1:3)」

私たちに与えられた新しい命は、復活の時だけのものではありません。
神さまとの関係の中で生き始めた時、私たちはすでに新しい命の中で生き始めるのです。

人が神さまから離れたことによって、霊的に死んだ状態になったという話しを覚えているでしょうか?
そのために、神さまとの関係が断絶していたのが、罪の状態でした。
しかし新しい命を得た時、霊的にも新しい命を得ることによって、神さまと私たちの関係は回復したのです。

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私たちがクリスチャンとして生きることのだいご味は、天国に行けるということだけでなく、この新しい命に生きることにあります。
しかし、せっかく神さまとの関係が回復したのに、多くのクリスチャンがこの喜びを体験していません。
これはすごくもったいなくて、残念なことです。

イエスさまは、こんな話をしています。

マタイ 13:44 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。

多くのクリスチャンが、こんな宝を手にしたにもかかわらず、宝の価値を理解せず、活かすことができていないのです。
この『神さまと生きるために知ってほしい12のこと』というテキストは、皆さんが新しい命に生きる喜びを体験できるようになることを目指して作られています。

―考えてみましょうー
あなたは、クリスチャンとして生きるというのはどんな生き方をすることだと思いますか?



クリスチャンとは、イエスさまの十字架による救いを受け入れ、復活の命を与えられた人のことを言います。
だから本来、私たちがクリスチャンとして生きるということは、新しい命に生きるということです。

新しい命に生きるようになると、何が起こるのでしょうか?
霊的に死んでいた私たちは、新しい命を得ることによって神さまとの関係が回復します

それは自分が神になるのではなく、神さまに従って生きることであり、自分をいつわらず、ありのままの自分を見出すことでもあります。

そして、神さまとの関係が回復したことによって本当の愛を体験する私たちは、人間関係の回復も体験することになります。
私たちが新しい命に生きるとき、私たちは創造されたままの自分として生きることができるようになるのです。


それはつまり:
1. ユニークであり、(別々の存在として創られた)
2. 神に似た者であり、(神に似せて創られた)
3. 神と愛し合い、(神を愛し、愛される者として創られた)
4. 互いにも愛し合い、(互いに愛し合う者として創られた)
5. 自立し、(自由意志を持つ者として創られた)
6. 世界をよく治め、(世界を管理するために創られた)
7. 永遠に生きる(永遠の存在として創られた)   
   

ということです。

● 洗礼(バプテスマ):

イエス・キリストを救い主として受け入れ、神さまとの関係の中に入ったとき、キリストの体(教会)に繋がる証として洗礼をします。
少量の水を額に付けたり、水を頭から垂らす事もありますが、本来は川の水に全身浸って行っていました。
イエスさまご自身も、バプテスマのヨハネから洗礼を受けて、神さまに従う新しい命に生きるしるしとして受けるべきことを、お手本となって表しました。また、このようにも命じています。

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。(マタイ 28:19-20)」

洗礼は、水の中に入った時に古い自分が死に、水から出た後は新しい命に生きることを象徴しています。
あくまでも象徴ですから、「洗礼を受けていなければ救われていない」ということではありませんが、私たちが新しい命に生きていくことを自覚するためには、とても有効だと思います。

聖書には、他にも『聖霊のバプテスマ』というものが記されています。
バプテスマのヨハネは水で洗礼を与えましたが、イエスさまは聖霊のバプテスマ(洗礼)を与えると言われていました。
聖霊のバプテスマに関しては、教団や教派が支持している神学によって解釈が変わります。

私自身は、水の洗礼のように象徴として執り行うものではなく、聖霊によって本当に新しい命を得て、その命に生き始めることを『聖霊のバプテスマ』として解釈しています。

神さまとの関係が築かれていることの証として、そこには奇跡的な体験が伴います。
一部の人たちが主張するように、異言がそのための条件だとは私は思いませんが、神さまとともに生きる歩みは奇跡にあふれています。
しかし、表面的に起こる奇跡を喜ぶより、神さまとの関係そのものを喜ぶ者でありたいものです。

「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカ 10:20)」

―考えてみましょうー
あなたは、新しい命に生きていますか?
私たちが、創られたままの自分により近づいていくためには、どうしたらいいと思いますか?


● どうしたら、より本来の自分に近づき、新しい命の中で生きていくことができるのでしょうか?

1.神さまとの関係を築き、深めること

まず大切なのは、私たちを創造した神さまを知り、その関係を深めることです。
神さまは、私たちのことを私たち以上によく知り、理解しています。
私たちは神さまとの関係を深めることによって、本当の自分自身の姿を見出し、そこに近づいていくことができるのです。

また、罪の影響を受けてしまっている私たちは、聖霊の助けなしに本来の私たちとして生きることは難しいでしょう。
私たちが私たちであるために、神さまとの関係は不可欠なのです。

2.神さまの御心を実行すること

私たちが新しい命に生きるためには、単に知識を増やしたり、理屈を理解するだけでなく、実際にそのような生き方を始める必要があります。
私たちの価値観が変わり、行動が変わるのでなければ、私たちの人生が変わることは絶対にありません。

それでは、神さまとの関係を築き、深め、みこころを実行するために何をする必要があるのでしょうか?

1. 神さまを愛し、キリストのからだとして互いに愛し合う
2. 祈り、神さまと対話をする
3. 聖書を読み、自分の人生に適用する
4. 自分に与えられている使命を見出し、神さまと人に仕える
5. 日々、神さまの導きに耳を澄ませ、みこころに従う
6. 神さまとともに生きることの喜び、福音を伝える

これ以降の章では、日々神さまと一緒に生きる喜びを体験するための理解を、さらに深めていきましょう。



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