「生」と「個性」

 最近、色々な場所で書いたものを発表させてもらう機会があり、こうして雑文を書くのが疎かになってしまいました。ただ、こうして、取り留めもなく書いておくことも、準備をしっかりして発表に臨むことと同じくらい大切なことだと感じたので、ゆるく更新できたらなと思います。

 最近は専ら学的な専門書を読んでいて、趣味の詩歌は疎かになってしまっています。もう少しで最初の試験を迎えるので、それが終われば、もう少し、ゆっくり詩歌が詠(読)めるかな(……?)。

 社会学と哲学の間のような場所に、G.ジンメルという哲学者/社会学者がいます。彼の著書『社会学の根本問題』で、次のような考え方(観念)が紹介されていました。「絶対者は個性的なものという形式でのみ生きるという観念」、これを言い換えて、「個性は無限者を制限するものではなく、それを表現し、表示するものであるという観念」とも書いていました。ジンメルは、20世紀中葉から後半の大都市ベルリンを生き、同時代のテンニースなんかと比べると、「都会の社会学者」とも言えるでしょう。そんな彼は、時代に「『個性』の芽生えと発達」をみていました。ジンメルは、「個性」––それは各人で根本的に異なっていて、互いが互いを本質的に区別しようとはたらく原理––の時代を見抜いていました、おそらく観念としての「個性」を。そんな人が社会学をやっているのってちょっぴり面白い。あるいは、当然かもしれない。普遍なき時代に、「わたし」と「あなた」が徹底的に異なる時代に、人と人はどうやって一緒に生きているのか、それが知りたかったかもしれません。

 ジンメルが何を知りたかったのかは定かではありませんが、わたしがジンメルに引かれる理由は、ジンメルのいう「個性」にあるような気がします。「個性」は無限者を表現する。無限者は絶対者に類する概念ですが、「生」も無限者の一形態ではないのかな。個性=私たち一人一人の個別の「生」は、「生」そのものに対して制限では決してない。むしろ、個別の「生」を通して(のみ)、「生」そのものを表現する。「生」と「個性」の関係、クッキーの生地とクッキーの型、みたいな……。

男・女、夫・妻——。クッキーの型からはみだす生地もまた生地
                       林 あまり

 個性が社会的なもの(=社会構築主義)なのか、わたしの唯一性を示すものなのか(=本質主義)。あるいは、どちらの概念の方がより善いのか。この辺は一考の余地があります。けれど、とりあえずは、わたしの学問的な興味も、芸術的な興味も、この「生」と「個性」に根があるのでは?と思ったりしました。

 雑文にしても短いですが、わたしの記憶の外部メモリーにすぎないので、言葉足らずな部分はご容赦ください。何か、コメントをいただければ幸いです。また今度。

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