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詩ってなんだろう

 火星が泣いていたから遅刻しました

 先日、『私たちは常に「一貫性」を求められる』という話になりました。就活で「なぜ弊社を志望したのか」という質問に対して、「私の目の前に白い猫が通りがかったから」ではいけませんし、授業に遅刻した言い訳が「火星が泣いていたから」でもいけません(これらの質問に対する正解は私が書くまでもないでしょう)。
 こういった回答が望ましくないのは、理由の一つに、「一貫性」がないことにあるでしょう。もう少し詳しく言えば、その回答に誰もが納得できる「一貫性」が見当たらないからです。でも、一方で、その回答は誰もが納得できる「一貫性」はないかもしれませんが、〈わたし〉が納得できる一貫性はあるかもしれません。遅刻の理由が、「泣いてた火星に寄り添っていた」というのは、少なくとも【原因】と【結果】から成り立っていますから。
 日常、程度の差はあれ、〈わたし〉にとっての「一貫性」は無視されやすく、〈わたし〉にとっての「一貫性」を誰かに説明するためには、「常識的な一貫性」を用いる必要があります。「朝起きたら、だるくて、考え事をしていたら、支度が遅くなって、遅刻してしまいました」といったように。

 谷川俊太郎『詩ってなんだろう』

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画像と題名のフォントは似てるようで全然ちがう


 しかし、とりわけ『〈わたし〉にとっての「一貫性」』に光を当ててくれる分野があります。そう、です。
 誰しも小学生の時一度は目にしたであろう詩人、谷川俊太郎は、『詩ってなんだろう』のあとがきで、こう書いています。

自分の感じていること、思っていることをその場で言葉にするのは難しいし、ともすれば紋切り型に流れがちです。しかし、既に存在している〈形〉の中に即興的に言葉を入れていくのは、[……]いわゆる〈自己表現〉からも〈意味〉からも自由にします。[……]詩的言語を目指すことで、[……]気付かずに流通している〈意味〉からつかの間解き放たれ、また〈散文〉に対する〈韻文〉の必ずしも意味にとらわれない音としての面白さ、豊かさも意識するようになります。[……]〈私〉の世界よりもはるかに広く深い〈言語〉の世界に気づき、自分の内部と同時に外部に言語を意識するようになる時、[……]言語というものの働きの根本に触れることになるのではないのでしょうか。           
          谷川俊太郎『詩ってなんだろう』文庫版へのあとがき

  ここで言われている、「いわゆる〈自己表現〉や〈意味〉」や「〈散文〉」というのは、「一貫性」とよく似ています。私たちは誰かに理解してもらうために、自分のことを散文的に表現するし、さらに自分のことを散文的に理解しようと努めます(自己分析なんてまさにそうですよね)。
 でも一方で、〈わたし〉は、意味にとらわれない存在としてある。〈わたし〉は今までこうやって生きてきたから存在するわけでも、この先何かするために存在するでもなく、言ってしまえば〈意味〉もなく、存在してる。
 ……頭が痛くなってきましたが、つまり、意味にとらわれない存在、音のような存在である〈わたし〉は、〈意味〉がなくても楽しいし、豊かである。『〈わたし〉にとっての「一貫性」』は「一貫性」より劣ってるし、価値がない、そんなことはないって、〈韻文〉と〈散文〉の関係は、そう教えてくれます。
 谷川俊太郎はまた、こうも書いています。


同じ日本語によって書かれているので、散文的言語と詩的言語を、ほとんどの人は、ごっちゃにしています。けれどそのふたつの言語はときに渾然一体ともなりますが、ときに断絶と言っていいほどに隔てられると私は考えています。日々の暮らしの中での言葉の使い方だけをを物差しにして考えると、近づくことの難しい詩作品もあるのです。
               谷川俊太郎『詩ってなんだろう』あとがき

 日常(少なくとも私のまわりでは)、詩を好んで読む人はあまりいません。おそらく韻文を無意識に遠ざけてしまうのは、自分のことを散文的に理解しようとするように、韻文を散文として読んでいるからではないでしょうか。さらに言えば、韻文を韻文として読むことは恥ずかしいことのように思っているのかもしれません。だって、「一貫性」がないから、誰にも理解されない恐れがあるし、そしたら、ただ訳のわからないイタイことを呟いているだけになっちゃうから。
 でも、〈わたし〉は〈散文〉では表せません。だって散文で表された私は、所詮、他人からみえた私に過ぎないから。
 ぜひ、散文的世界に疲れてしまったら、何か適当な詩を読んでみたり、思いの丈を書いてみたらといいと思います、恥ずかしいかもしれないけど。

じぶんがみたり、きいたりしてかんじた、ふだんとはちょっとちがうとくべつなきもちを、みじかいことばで、へたでもいいから、しょうじきにかいてみよう。それが詩になっているかどうかは、きにしなくてもいい。
              谷川俊太郎『詩ってなんだろう』きもちの詩

 詩の紹介

 ここまで、全く散文的記事だったので、一つ詩を紹介して終わりたいと思います。みなさんもぜひお気に入りの詩を見つけてくれたらな、と思います。


長すぎる。
                       ルナール/岸田国士訳

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追伸)私はTwitterで、岩木 白(リンクになってます)というユーザーネームで詩などいろいろ呟いていますので是非興味がある方は覗いてみてください。

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