見出し画像

挑戦はいくつもの分かれ道を経て、続いていくのね

 総合型地域スポーツクラブ マネジャーの上杉健太です。2020年12月に一般社団法人たかぎスポーツクラブを退職予定で、次は埼玉県の富士見市を拠点にした総合型地域スポーツクラブを作りつつ、色々な総合型地域スポーツクラブと関わる仕事をしていきます。これを便宜上、“次の挑戦”などと言っているのですが、私にとっては今、たかぎスポーツクラブのマネジメントをしていることも、富士見市で新しく仕事を始めることも、『総合型地域スポーツクラブで幸せな地域社会を実現する』という目標の上に立っている挑戦であり、地続きです。なので、実は次も何もなくて、“同じ挑戦が続いていく”という状態です。
(日本人の低い幸福度を何とかしようぜ!という想いが私にはずっとあります)
 ただ、私の喬木村での挑戦には、最初から二つの道があったことは間違いありません。今日は、挑戦を始めてからずっと私の前にあったその二つの道についてお話したいと思います。また、かなり突っ込んだことを書いてしまったので、そこは有料で隠させていただきます!

 まず前提として、私は東京出身で、総合型地域スポーツクラブのマネジャーになったのは長野県の喬木村(人口6000人)。地域おこし協力隊として移住をして、地域おこし協力隊として総合型地域スポーツクラブのマネジメントの仕事をし始めました。実は、東京出身であることと、地域おこし協力隊であったことは、今回の判断に結構大きく影響しています。『義理』や『筋(すじ)』を重視しがちな私だからなのかもしれませんが。
 とにかく、東京から移住をして総合型地域スポーツクラブのマネジャーになった私は、最初から二つの道について考えていました。
 一つの道は、『ずっと喬木村で総合型地域スポーツクラブをやっていくという道』。地域おこし協力隊というのは、その地での定住を前提とした国策なので、まずはこの道の可能性を優先的に考えることが求められていました。とはいえ、地域おこし協力隊の任期は3年間で、その後の仕事を保障してくれる制度ではないので、一般的に言えば厳しい道のりです。
 二つ目の道は、『喬木村以外のところで総合型地域スポーツクラブをやる』という道。結果的に私はこっちの道を行くことにしました。

 では、どういう場合に喬木村に残り、どういう場合に他の場所で総合型クラブをやると私が考えていたのか。
 私が喬木村に残れるとしたら、以下の条件をクリアしている場合だなと思っていました。

①総合型地域スポーツクラブで食っていける
②クラブが自分のものと思える
③喬木村のモデルを日本中に広められる
④ずっと住んでいたいと思える

順番にご説明します。

 まず、①の『総合型地域スポーツクラブで食っていける』はもう必須条件でした。喬木村は元々私にとっては縁もゆかりもない場所で、本当に総合型地域スポーツクラブのマネジメントをしたいという理由だけで移住をしたので、「総合型地域スポーツクラブで食っていけなくても、他の仕事をすればいいや」とは1ミリも思っていませんでした。なので、喬木村でやる場合は、『総合型地域スポーツクラブで食っていける』は必須条件でした。
 これについては、一応はクリアできていたと思います。全国的に見たら低い年収ですが、喬木村で生きていくには、共働きだったら大丈夫かなというレベルにはなっているので。

ここから先は

3,120字
総合型地域スポーツクラブや筆者の挑戦のリアルな実態を曝け出しています。自ら体を張って行ってきた挑戦のプロセスや結果です! 総合型地域スポーツクラブをはじめ、地域スポーツクラブの運営や指導をしているかた、これからクラブを設立しようとしているかた、特に、スポーツをより多くの人に楽しんでもらいたいと思っているかたにぜひお読みいただきたいです!

総合型地域スポーツクラブのマネジメントをしている著者が、東京から長野県喬木村(人口6000人)へ移住して悪戦苦闘した軌跡や、総合型地域スポ…

総合型地域スポーツのマネジメントを仕事としています。定期購読マガジンでは、総合型地域スポーツのマネジメントに関して突っ込んだ内容を毎日配信しています。ぜひご覧ください!https://note.com/kenta_manager/m/mf43d909efdb5