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総合型地域スポーツクラブにハマった男のストーリー

 宅配便が届くたびにマスクをするのが面倒だし、最近はほとんどの業者が印鑑不要で渡してくれるので、インターホンで「すぐに取るのでそこに置いておいてください」と言うことにしました。

 どうも、ふじみスポーツクラブの上杉健太(@kenta_u2)です。埼玉県富士見市で、誰もがいつまでも、自分に合ったスポーツを続けられる地域社会の実現を目指して、総合型地域スポーツクラブの運営をしています。

 今日は改めて、私が地域スポーツを仕事にするに至ったストーリーを確認してみようと思います。ずっとご購読いただいているかたには繰り返しになるのかもしれませんが、たまに自分の挑戦の必然性や出発点みたいなものを振り返るといいことがあると信じているので、お付き合いいただけると嬉しいです。

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 ざっと大まかな流れが分かるように時系列でトピックを先に並べてしまうと、以下のようになります。

【中学・高校】
学校部活動を失う経験から、学校中心の日本のスポーツの限界を知る。

【大学】
・地元である東京都三鷹市にフットサルクラブを立ち上げる。
・総合型地域スポーツクラブを学ぶ。

【会社員】
・サラリーマンの多くが幸せそうに見えないように感じる。
・地域でのクラブ活動が生きがいや逃げ場になれることを実感する。
・人生における『仕事』の割合が相当に大きいことを実感する。
・ビジネスマンとしてスキルを高めると同時に、自分ができる最大限の社会貢献とは何かを考えるようになる。

【総合型地域スポーツクラブ】
・マネジャーを募集していた長野県喬木村へ移住して総合型地域スポーツクラブのマネジメントを始める。
・雇用を生み出せるクラブに育て上げる。
・さらなる普及の為に独立し、総合型地域スポーツクラブがなかった埼玉県富士見市へ移住し、ゼロから立ち上げ。

 ざっとこのような感じなのですが、少しずつ補足の説明を加えていきますね。

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中学・高校時代の部活を失う経験

 私は2回、部活動を失う経験をしています。1度目は中学校時代。野球部に所属していたのですが、部員が足りなくなって廃部になってしまったんです。

 2度目は大学受験に失敗し、浪人した時です。そもそも学校という所属を失い、それまで学校でスポーツをするのが当たり前だった私は、「学校を失うとスポーツができないんだな」ということに気が付いたんですね。

 この2回の経験は私に、「学校中心でスポーツをやることの限界」を教えてくれたと思っています。1年の浪人の後、無事に大学生になった私は、こう考えるようになりました。

「もしまた大学でスポーツを始めたら、また4年後にはスポーツを失うことになるのか・・・。じゃあ地元でやろっと♪」

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大学時代の学びと実践

 そうして私は大学ではスポーツ活動は行わず、地元にフットサルクラブを立ち上げて活動をしていました。ここで私は、仲間を集めることの難しさを知り、色々な人との出会いからスポーツの多様性を知り、さらに、色々な人が集まる地域クラブの面白さを知りました。

 大学では総合型地域スポーツクラブのことも勉強しましたし、作野誠一先生のもと、組織論についても学びました。私の卒業論文は、当時の私がフットサルクラブの運営で感じていた課題である、「俺が死んだらこのクラブきっとなくなるよな・・・」を解決するものにしようと、『地域スポーツクラブにおけるリーダー交代と後継者育成に関する研究』というテーマで書きました。結構多くの同級生が苦しんで卒論に取り組んでいたように思いますが、私は自分の困りを解決する為にやれたので、非常に楽しかったと記憶しています。

 私が地元にフットサルクラブを作ったのは、大学を卒業しても続ける為だったので、当然卒業後もクラブは続けていきました。

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幸せを感じられる社会に

 会社員になった私は、平日は仕事をして、土日に会社のサッカー部や続けてきたフットサルクラブの活動を楽しむ生活を送っていました。私は恵まれたサラリーマンだったと思いますが、それでも仕事が辛いと感じることはあり、そんな中で、ずっと続けてきたフットサルクラブの存在は非常に大きかったです。

「クラブに行けばいつもの仲間と会える」

そう思える場があることが、どれだけ日々の生活を充実させてくれたか。

 私は、多くの人がそう思えるようになれば、もっと幸せを感じながら生きられる社会になれるんじゃないかと思うようになります。地元でずっと続けてきた活動が、社会人になっても変わらずにあることで、救われる人は多いんじゃないかなと思ったんです。

 そうして私は、もっと地域スポーツクラブを広めようと思うようになったのですが、そうは簡単にいきません。20代も後半に入ると、任せていただける仕事の質や量が変わり、だんだんと生活における仕事の占める割合が増えてきたんです。やがて私はフットサルクラブの将来の発展を考えられなくなっていき、そうしている内にメンバーも同じような状況になったり、あるいは結婚や出産などで参加率が下がったりしていきました。

「趣味の限界」

私はそう思いました。

 仕事というものが人生の大部分を占めている以上、趣味の領域では限界がある。そもそも優先順位を上に持ってこれない。だったら仕事としてやるしかない。

 さらにその頃の私は、会社での自分にそこそこの自信を持っていました。仕事は”こなせる”方だったと思いますし、人間関係も良好でした。なので、そのまま会社に残るという選択肢はあったと思います。でも私は実は、もう一つの思考に夢中になっていました。

「ここで身に付けたスキルや経験を、地域スポーツクラブの分野で使ったらどうなるんだろう」

 そうして私は会社を退職することを決め、地域スポーツクラブを仕事としてできるように仲間探し(転職活動)を始め、縁のあった長野県喬木村へ行くことになったんです。

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チャレンジの日々

 総合型地域スポーツクラブの仕事を始めてからはチャレンジの日々でした。そもそも、地域スポーツクラブのマネジメントはしていたとはいえ、それは趣味の領域の話です。プロとしては初心者。

 また一から総合型地域スポーツクラブについて学び直し、マネジメントやスポーツ指導の資格を取りました。

 また、クラブを大きくしないと自分が生きていけませんでしたから、事業拡大は至上命題でした。学びながら実践していかないと、事業拡大は間に合いません。そして私は、テニス部門を立ち上げ、コーディネーショントレーニングや学習などの新しい活動をオープンさせ、さらに集まってきた指導者の仲間たちとどんどん事業を拡大させていったんです。ICT(プログラミングなど)など、畑違いのジャンルの立ち上げも経験でき、喬木村でのクラブマネジャーライフは、本当に刺激的な日々でした。東京でなかなかできなかった子どもを2人も授かれたのも、不思議な縁だなと思います。

 やがてクラブは補助金がなくても年間2,000万円ほどの収益を上げることができるようになり、雇用もそこそこ安定して生み出せるようになったことから、私は次のチャレンジへ移らせていただくことにしました。

 それが、『ゼロから総合型地域スポーツクラブを立ち上げる』というチャレンジです。

 喬木村へ移住したのは、そこに既にクラブがあり、求人があったからです。私はクラブ設立2年目にジョインしました。立ち上げには関わっていないんです。これは私の一種のトラウマとなっていました。

「立ち上げを経験していない人間が何を偉そうにあれこれ言ってんだ」

 総合型地域スポーツクラブは、やればやるほど興味深く、どんどんハマっていきました。誰よりも総合型地域スポーツクラブについて考えている人間になりたいなと思うようになりました。誰よりも、その普及に貢献できる人間になりたいと思うようになりました。だったら立ち上げ経験しないと駄目でしょう!

 ということで私は総合型地域スポーツクラブを立ち上げられる場所探しを始め、縁あって埼玉県富士見市でそれを行うことにしました。決め手は、『富士見市に総合型地域スポーツクラブがないこと』と、『富士見市のスポーツ推進計画によると、総合型地域スポーツクラブを創設する意思はあること』でした。ここなら、総合型地域スポーツクラブを歓迎してくれると思ったんですね。

 まぁ事情は私が想像していたよりもかなり厳しいものではありますが、それもまた乗り越えるべき試練!私のこのストーリーをより強くしてくれる演出だと思って、一つ一つの課題をクリアしに行っています。

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総合型地域スポーツクラブや筆者の挑戦のリアルな実態を曝け出しています。自ら体を張って行ってきた挑戦のプロセスや結果です! 総合型地域スポーツクラブをはじめ、地域スポーツクラブの運営や指導をしているかた、これからクラブを設立しようとしているかた、特に、スポーツをより多くの人に楽しんでもらいたいと思っているかたにぜひお読みいただきたいです!

総合型地域スポーツクラブのマネジメントをしている著者が、東京から長野県喬木村(人口6000人)へ移住して悪戦苦闘した軌跡や、総合型地域スポ…

総合型地域スポーツのマネジメントを仕事としています。定期購読マガジンでは、総合型地域スポーツのマネジメントに関して突っ込んだ内容を毎日配信しています。ぜひご覧ください!https://note.com/kenta_manager/m/mf43d909efdb5