自由について


 昨日、久しぶりにPLANETSCLUBのランニング部のメンバーと朝8時に集まった。この日は全国的に曇り模様で、朝から雨が降りそうだった。待ち合わせ場所に着くと、「こっちは小雨が降って来ました。」「まだ家の中です。」とてんでばらばらな声。待ち合わせ場所はZoom、自粛期間中に定着したオンライン・ランだ。今日のイベントは、怠惰になりがちな土曜の朝にみんなで走る前にZoomで集まろうという主旨だ。『みんなで家を出るラン』というイベント名には、絶妙な塩梅を感じとれる。僕は走り出して15年くらい経つが、やっぱり、毎朝の玄関のドアが最大の壁では無いかと思っている。一度走り出してしまえば何の問題もないのだが、その一歩が重いのだ。だが、家の外に出てZoomで顔を合わせるという行動で、この問題は解決してしまった。

 人の意思を動かすには、その一歩手前から考えてみると上手くいくケースがある。
例えば、次の一説は、人間の身体運動は一日の総活動量の下に配分される、という驚きの法則を説明している。

『活動温度の高い人が、原稿執筆のような比較的低い帯域の活動(動きの少ない活動)をする必要があるとしよう。実は活動温度の高い人は、高い帯域の活動(動きの活発な活動)にいやでも時間を使わざるを得ない。したがって、原稿執筆のような低い帯域の仕事にあまり時間を使うことができないのだ。つまりこのような人は、長時間机に向かって仕事をすることがむずかしくなる。逆に、活動温度の低い人は、高い帯域の仕事をしようとしても、そのための活動予算が足りなくなりやすいのだ。したがって、これにあまり時間を使うことができない。

矢野和男氏の『データの見えざる手』の一説だ。
しかも、これは外部から行動を制限されない、『自由』に行動の選択ができる状態に当て嵌まる法則なのだ。1日単位で見たとき、個人の活動は活動量の別の帯域に応じて、予算が決まっている。それが活動予算だと言うのだ。では、この活動予算にどう向き合うべきか? 矢野氏はこう言う。

結局、1日の時間を有効に使うには、さまざまな帯域の活動予算を知って、バランスよくすべての帯域の活動予算(エネルギー)を使うことが大切だと気づく。これを無視して、ToDoリストを作ったり、1日の予定を決めたりしても、結局はその通りにはならない。単純素朴に立てた計画は、有害でさえあるかもしれない。なぜなら、この原則を知らないと、予定をこなせなかったのは自分の意志が弱かったためではないかと、自己嫌悪に陥るかもしれないからだ。

『バランスよくすべての帯域の活動予算を使う。』
では、この協同運営マガジンで考えてみよう。
参加メンバーは『走る→書く→読む』というサイクルで、お互いに刺激を与えあっている。先程の法則に従うと、走る=高い帯域の活動、書く(読む)=低い帯域の活動、と考えられる。なんと、帯域別の活動に振り分けられている。事実、この走った晩には多くのメンバーが記事を書く意思を示していて、書き終えたメンバーの記事を互いに読み合い、書き手に対してフィードバックを与えている。この双方向のコミュニケーションは、同著の3章と4章に、それぞれ『幸せ』と『運』という、定義のし難い概念と密接に関連してくるのだが、それについては別の機会に。
 最後に僕の関心を一つ述べたい。個人の活動予算というリソースが、活動帯域別に限られているのであれば、個人の定義を考え直した上で、活動予算を考えることは出来ないだろうか? 

「人間」という字は「人と人の間」と書くから、人間には社会性が必要なのです──と教わったことがあります。しかしいまは、「人と人の間」にはインターネットがあります。その意味では、「人間=インターネット」と言ってもいいでしょう。

これは落合陽一氏の言葉だが、矢野氏も、人間力と機械力の共進化による、問題解決の最適化をヒューマン3.0と呼んでいる。僕は、このPLANETSCLUBから個人と集団の関係を考えてみようと思う。

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