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芥川龍之介の童話とヒューマニズム

芥川竜之介『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ 他十七篇』(岩波文庫)つづきⅢ。ここに収録されている「蜘蛛の糸」「犬と笛」「魔術」「杜子春」「アグニの神」は、鈴木三重吉の童謡・童話雑誌『赤い鳥』に、「仙人」は『サンデー毎日』、「三つの宝」は『良婦の友』、「白」は『女性改造』に発表された童話である。

「犬と笛」は、葛城山の笛の上手な若い木樵が、ある日「葛城山の足一つの神」から、翌日には弟の「葛城山の手一つの神」、翌々日にはその弟の「目一つの神」から、笛を吹くお礼に「嗅げ」「飛べ」「噛め」という名の3匹の犬をもらう。そのあり様が反復法というのか、繰り返しリズミカルに描写され、心地よく童話の世界に引き込まれていく。

「杜子春」でも、洛陽の西の門の下に佇む杜子春の前に、鉄冠子という仙人が現われ、黄金の在り処を教えてくれる。大金持ちになった杜子春は、たちまち贅沢にうつつを抜かし、3年ほどで一文無しになってしまう。杜子春が、また西の門の下に立っていると、あの仙人が姿を現わし、再び黄金の埋まっている場所を教えてくれる。杜子春はたちまち大金持ちに返るのだが、やはり3年ほどしかもたない。

三たびぼんやり佇む杜子春の前に、やはりあの仙人は現われ、「お前は何を考えているのだ。」と問いかける。杜子春が「あなたの弟子になって、仙術の修業をしたい」と答える。ここまでのリズミカルなリフレイン的な描写によって、読者を物語の世界へいざない、いよいよクライマックスの見事などんでん返しで、芥川の見せたい世界をより一層感動的に叙述する。大団円を迎えて、仙人になれなかった杜子春が、「これから後、何になったら好いと思うな。」と仙人に問われ、「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」と答える杜子春の声には、「今までにない晴れ晴れした調子が罩(こも)って」いた。大金持ちになることでも、仙人になることでもなく、ふつうの「人間らしい、正直な暮し」にこそ、人生の歓びがあると気づくのである。

「三つの宝」は、「黒ん坊の王様」との婚礼を望まない王女を助けるために、「一飛びに千里飛ぶ長靴、着れば姿の隠れるマントル、鉄でもまっ二つに切れる剣」という3つの宝を持っている王様と争う王子の物語である。王子が王城の庭に入ると、王は「千里飛ぶ長靴」を使ってアフリカから一飛びに現われる。そこで、王が「マントル」に姿を隠して自慢すると、王女と王子はむしろ王が消えたことを喜ぶ。それでは、と「剣」の勝負を挑むのだが、王子を殺したのでは王はかえって王女に憎まれるだけに終わると気づく。

この「三つの宝」を使った争いのプロセスで、王は「我我は二人とも間違っていたのだ」と悟る。そして、「あなたはわたしに勝った。わたしはわたし自身に勝った」、というのも「王子の剣は鉄を切る代りに、鉄よりももっと堅い、わたしの心を刺したのです」と王子に語りかける。王子はそこで「(見物に向いながら)皆さん!我我三人は目がさめました。悪魔のような黒ん坊の王や、三つの宝を持っている王子は、御伽噺にあるだけなのです。我我はもう目がさめた以上、御伽噺の中の国には、住んでいる訳に行きません」と呼びかけ、「もっと広い世界! もっと醜い、もっと美しい、——もっと大きい御伽噺の世界!」へ共に出て行くことを訴えるのである。

中村真一郎は、この作品を初めて読んだ1930年代の頃を振り返り、「実にすがすがしい思いがし、当時の、卑劣な世論操作にのった、中国人に対するいわれのないわが国の少年たちの軽侮感に吐気を催していた際であったから、一瞬、私は救われた思いを感じたものだった」と回顧し、芥川の「今日にも充分に通ずるヒューマニズムに敬意を表して」(「解説」)やまない。たしかに爽やかな感動をおぼえるが、何よりも生きる歓びは外的な条件によるのではなく、すべては自らの心にあると覚知したことを見逃してはならない。心は巧みなる画師の如し、と言うべきか。

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