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実は用に適う―中村真一郎『頼山陽とその時代』〈下〉偶感(その11)

中村真一郎『頼山陽とその時代』〈下〉読了。最終章の〈『書後題跋』〉もやはり、まるで謎解きゲームのように、頻出する難語の探索に没入して時のたつのを忘れた。

「山陽は最初、詩人として知られた。そしてやがて史家としての名声が、それに雁行した。維新の世代は、史家としての評価に政論家としてのそれを附加した。そして、そうした『参加の文学』者としての山陽の姿が明治になって次第に消えて行ったあとで、今度はこの『書後題跋』による、批評家としての彼が新たに推重されることになった」という著者のまとめは、要を得て卓抜である。

では、批評家としての山陽の才能の特色は奈辺にあったのか。徳富蘇峰は、一に「従来の成見に囚はれない」こと、二に「凡ての真善美に対して、鋭敏なる鑑識眼を有つのみならず、温かなる而して窮屈ならざる同情心がある」ことの二点をあげている。では、如何なるものか、二、三の文を抜き出してみたい。

巻上の巻頭は「跋遼豕(レウシ)録」――山陽は「現在の経学者が本文よりも注に関心が強すぎることを攻撃」して、「今ニ在リテ経ヲ治ムルニ四病アリ。」と裁断する。なお、「跋春秋臆断稿本」に、春秋の研究を企図して研究書を蒐集したが、「余りに厖大な量で、しかも諸説が対立していて、どれによっていいか判らない」ので、「余、是ニ於テ諸伝ヲ閣(オ)キ、独リ正文ヲ熟観スルコトト」した。「従游者、聴クニ随ヒテ之ヲ録シ冊ヲ成ス。」のであるが、著者は「この筆記は『遼豕録』と題して、昭和になってから『全書』中に初めて採録された」と注記している。(この二つの『遼豕録』はいかなる関係にあるのかを知らない)

その病の一は「正文ヲ閣ニシテ而シテ先ヅ注ヲ読ムヲ注ニ憑ルト曰フ。」原典を措いて先ず注によるのは本末転倒である。
その二は「注、妥ナラザルヲ覚フレバ、寧ロ経ニ繆(イツ)ハリテ、敢テ注ニ違ハザルヲ注ニ侫スト曰フ。」正文を歪めて注におもねてはならない。
その三に「未ダ注ノ意ヲ繹(タズ)ネズシテ、胸ニ争気ヲ横タヘ、一語合ハザレバ詬(ソシ)リテ疵纇(シライ)トナスヲ注ヲ仇トスト曰フ。」「疵纇」は欠点とかキズの意。
その四に「新義ヲ竪(タテ)ント欲シテ勦説(サウセツ)ニ帰スルヲ恥トシ、乃チ尽ク群注ヲ検スルコト、帳簿ヲ稽(クラ)ブルガ如キヲ注ニ役セラルト曰フ。」「勦説」は他人の説を盗んで自分の説とする意である。

だが、山陽は「毎(ツネ)ニ謂(オモ)フ、昔人、吾ニ代リテ精ヲ費セリ、吾レ以テ已(ヤ)ムベシ。以テ已ムベカラズシテ言ヒ、或ヒハソノ既ニ言ヘル所ニシテ吾レ未ダ之ヲ覩(ミ)ザルニ出ヅルモ、適々(タマタマ)心ノ同ジク然ル所ヲ見ルニ足ルノミ。」と。なお、「覩」は「睹」の古字である。以下、難語の続出は推して知るべし。

しかも、「書詩書正文後」に、『詩経』『書経』を読むには「正文ノ通ズベキ処ヲ熟誦シ、務メテ大義ヲ明ラカニシテ、字句ヲ強解スルヲ求メズ。又、徒ラニ理ヲ以テ断ゼズ。而シテ勢ト情トヲ以テ、之ニ参ジ、ネガハクバ用ニ適ヘントス。是レ我ガ経ヲ治ムルノ法ニシテ、独リ詩書ノミニアラザル也。」というのである。「書論孟正文後」にも、『論語』『孟子』は「是レ聖人、世ヲ憂フルノ婆心、ソノ言ハ宜シク平易ニシテ暁(サト)リ易カラントスベカリキ。後儒、鑿(ホ)リテ之ヲ深クスルハ、乃チソノ旨ヲ失スル也。」と、「後世の註釈家、哲学者たちによる原典の拡大解釈」を非難しているのである。

「書四書集註後」――朱子の『四書集註』は〈論語集注〉〈孟子集注〉〈大学章句〉〈中庸章句〉の4編からなる。「朱子のこの書は流行しすぎたために、却って後代の学者たちがこの書に反論することを学問だと決めてしまった」のだが、「蓋シソノ古訓ヲ鎔シ、今理ニ適セシメ、実ニ精当不易ナル者アリ。」と知るべきで、「粗心泛(ハン)読ノ者、妬心ソノ瘢ヲ索ムル者、皆、知ラザル也。」、そそっかしく読み飛ばしたり、妬心からアラ探しをする者は「精当不易」を知ることが出来ない、と山陽は断じている。

さらに言えば、巻中の「読論語孟子」の「又」――「我ガ学ニ一字ノ宗旨アリ、曰ク実。又、析(ヒラ)キテ両字トナシ曰ク用ニ適(カナ)フ。人ト為リ実ヲ要シ、読書実ヲ要シ、文章ヲ作リテ又実ヲ要ス。実ハ則チ用ニ適フ矣。ソノ用ニ適ハザル者ハ必ズ為サズ、必ズ読マズ、必ズ作ラザル也。故ニ又、衍(ノ)ベテ三字トナシ、曰ク大義ニ通ズ。」山陽はあくまでも実であり用に徹する「実用主義」者であって、いわゆる訓詁の学者ではなかった。

巻下――「題施溥山水」「題蔡道憲書」などの美術批評になると、まったくお手上げであるが、とはいえ「題盛茂燁山水」の挿話に、コレクター山陽の面目が躍如としていて面白い。明末の画家「盛茂燁(セイモエフ)ノ石湖暮色図」がどれほどの美術か知るよしもないが、「嘗テ之ヲ筑前ニ観テ、垂涎スル已。側ラニ松永子登(号花遁)アリ、亦、色シテ之ヲ欲セリ。京ニ帰リテ周歳、子登忽チ一巨緘ヲ寄ス。開キ視レバ則チ是ナリ。蓋(ケダ)シ吾ガ之ヲ愛セシヲ知リ、周旋ツヒニ之ヲ獲タリト云。」著者の記すところによると、「こう書くと体裁のいい美談であるが、実は山陽はもし入手できなければ、花遁が密かに横奪したものと認めると言って恐喝していた」というから、その蒐集の執念は凄い。

「題再写耶馬渓山水図巻」――かつての「山陽の九州耶馬渓の写生図は有名となり、その風景もまた天下の名勝と称せられるようになった」のであった。そこで、「自分もその画を欲しくなった、山陽門下のコレクター橋本竹下は執拗に師に迫って、もう一度、新たに描いてほしいと強要し、そこに『再写耶馬渓山水図巻』なるものが出来上った」のである。尾道のきわめて豊かな旧家の主人であった竹下は、そのあり余る財を費やして書画を蒐集していた。

「而シテ元吉(橋本竹下)、更ニ写スヲ索ム。余、懲毖(チヨウヒ)シテ肯ンゼズ。」山陽はもちろん弟子の索めをいましめて承諾しなかった。「然レドモ(竹下の)索、愈々力(ツト)ム。遂ニ許ス。而シテ宿諾十年、今始メテ之ヲ果ス。」というのも、「竹下は山陽が自宅に滞留した機会に、もう十年も待ったのだからと言って、膝詰談判に及んだ」のである。竹下はしばしば画室の様子を窺いに来て、嬉しさのあまりか、ついつい話し込んでしまう。「故ニ六日ヲ閲シテ纔カニ之ヲ竣(ヲ)フ。」のであるが、山陽の弟子に対する「溺愛」ぶりは微笑ましい。やはり情の人である。

先に読了した『頼山陽とその時代』〈上〉は、あまりに「粗心泛読」であった。あらためてじっくり再読したい。

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