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中村真一郎『頼山陽とその時代』〈下〉偶感

ようやく取りかかった中村真一郎『頼山陽とその時代』〈下〉の、さしあたり今時点の偶感を記す。相変わらず難解な、というより初めてお目にかかる漢字熟語が、とくに漢詩のなかに頻繁に顔を出す。なにしろ江戸時代の儒学者や文人の遺した文や詩であれば、当然と言えば当然だが、いくつか拾い出せば「髫齢(テウレイ)」「趦趄(シショ)」「磊磈(ライクワイ)」「搢紳(シンシン)」「塗鴉(トア)」「愧悚(キショウ)「俲顰(コウヒン)」といった具合いにとどまるところがない。

このまま飛ばし読みを続けるのはマズイと思い直し、漢和辞典とタブレットを傍に逐次調べることにした。すると、コロナ禍中の巣ごもり時間とはいえ、1時間に3、4頁ほどの、文字通り蝸牛のごとき進み具合いには閉口した。だが、たとえば「磊磈」は「胸中に積もっている悲憤慷慨の気持ち」、「搢紳」は「官位が高く身分のある人」と分かって読み進むと、眠気に襲われることもなくなった。むしろ、探索心を刺激される愉しさに時を忘れ、まずは下巻冒頭の「第四部 山陽の交友 下」の「一 江戸の学者たち(第四グループ)」の章をようやく読み終えた。

そこで思い至って感嘆したのは、「漢文学には全くの素人」とする著者が、これら膨大な原書をすべて、どのようにして読んだのか、驚きというよりも謎である。「江戸の学者たち」だけをみても、昌平黌の学長たる林述斎の文集『蕉窓文草』(三巻)、詩集『蕉窓永言』(四巻)のほか、『谷口樵唱』『西郊牧笛』などがあげられている。以下、述斎の後を継いだ佐藤一斎はじめ、その終生の親友・松崎慊堂、考証学者・大田錦城と堤它山、折衷学者・亀田鵬斎などの詩文を、ここに書名はあげないが原書から引用し、その人となりや山陽との関わりが見事に叙述されているのである。

その謎を解くカギは、本書の「後記」にあった。著者は「十年前の神経症の頃」から、「江戸時代の邦人の詩文に親しみはじめ……それは急速に熱病的な蒐集欲と変じ、そして入手するに従って読了して行った」ので、頼山陽の評伝を書くにあたって、「書棚に並んでいる本だけを使って、……専ら原書だけから」、と言っても「多分、数千巻に余る当時の刊本だけに拠って、叙述した」というのである。もはや常人のなせるワザではない。

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