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芥川龍之介「妖婆」は失敗作だったのか

芥川竜之介『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ 他十七篇』つづき、「妖婆」をめぐって。

一昨年になるだろうか、志賀直哉の『暗夜行路』や『和解』などを読み返した。その流れで初めて目を通した随筆集に、芥川龍之介への追悼文「沓掛にてー芥川君のことー」があり、そこに「妖婆」について、次のような一節があった。

「二人の青年が、隠された少女を探しに行く所で、二人は夏羽織の肩を並べて出掛けたというのは大変いいが、荒物屋の店にその少女がいるのを見つけ、二人が急にその方へ歩度を早めた描写に夏羽織の裾がまくれる事が書いてあった。私はこれだけを切り離せば運動の変化が現れ、うまい描写と思うが、二人の青年が少女へ注意を向けたと同時に読者の頭もその方へ向くから、その時羽織の裾へ注意を呼びもどされると、頭がゴタゴタして愉快でなく、作者の技巧が見えすくようで面白くないというような事をいった」

実のところ怪異譚はあまり好まないのだが、果たしてどうなんだろうかと、実際に「妖婆」に当たってみた。その時どう感じたのか、記憶にさだかではなかったので、またあらためて読み直した。

主人公の新蔵が友だちの泰さんと酒を酌み交わす「与兵衛鮨」は、今では発祥の地の標識が立つのみだが、そこから連れ立って「一つ目の橋の袂を左へ切れて、人通りの少い竪川河岸を二つ目の方へ一町ばかり」行き、「神下しの婆の家」へ向かう。「一つ目」というのは現在の竪川にかかる一之橋、「二つ目」は二之橋であり、この界隈は葛飾北斎の「冨嶽三十六景/本所立川」に描かれていて、遥かに富士山を望める場所であり、芥川の育った町である。秦さんと別れた新蔵が暗くなるのを待つ「回向院前の坊主軍鶏(ぼうずしゃも)」は、今も商う「ぼうず志ゃも」のことだろうか。

問題の箇所は、次のような描写になっている。
「ものの五分と経たない内に、二人は夏羽織の肩を並べながら、怱々泰さんの家を出ました。……」

「ーーその店先へ佇んで、荒物屋のお上さんと話しているのは、紛れもないお敏だろうじゃありませんか。二人は思わず顔を見合せると、殆ど一秒もためらわずに、夏羽織の裾を翻しながら、つかつかと荒物屋の店へ入りました」

この描写によって「羽織の裾へ注意を呼びもどされ」て、読者の「頭がゴタゴタ」するという違和感はなかった。同時に、単に人を驚かすだけの怪異譚ではなく、「その自然の奥に潜んでいる神秘な世界」への真摯な探究心を感じられたほどである。「これはもとより人間的興味を期したものでもなければ、心理的の研究でもなく、或は哲学的の意味があるわけでもない。……この作品はもう最初から失敗してゐるやうに私には感じられる」(「創作月旦(3)『苦の世界』と『妖婆』」)とする佐藤春夫の酷評は、的外れと言うべきだろう。少なくとも志賀直哉の技法的な指摘は、それなりに「妖婆」を評価していた証左ではなかったか。

しかし、佐藤春夫などからこき下ろされ、世評も芳しくなかったためか、芥川の遺書には、「〔……二、又「妖婆」(「アグニの神」に改鑄したれば、)「死後」(妻の爲に)の二篇は除かれたし。〕といふ字句があつた」(小穴隆一『二つの繪ー芥川龍之介の囘想』)ので、芥川全集には収録されず、あまり光の当てられない作品になっていた。しかし、児童文学に改鋳された「アグニの神」は、「妖婆」にはとても及ばないと思った。


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