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多田蔵人編『荷風追想』摘記Ⅰ

谷崎潤一郎は「私を文壇注視の的にして下すったのは永井荷風氏であった。」(「青春物語(抄)」)と生涯、荷風に深く感謝した。荷風門下の久保田万太郎は「じッさい、先生ほど、変化し、転移し、そしてつねに躍進をつづけた作家は、日本は勿論、けだし外国にもそのためしをみないであろう。」(「ふたりの会葬者」)と讃え、堀口大學は「師恩というものは、賜わるものよりも、多く門下が汲みとるべきものかも知れない。」(「師恩に思う」)と思いを巡らす。吉井勇は「探墓癖このごろ得つと書くべきか君へ送らむ京のたよりに」(「荷風氏への歌」)と荷風を詠った。

幸田文「すがの」になると一転して、文体や語彙からして、まるで別世界である。狭く暗い菅野の道を「人がすっと擦れ違って行った。かわしたとたんに、ちかっと見られたという気がした。大きな洋服の男が駒下駄に素足で、すぐ曲って行ってしまった。」というのは、たまたま行き逢った永井荷風である。「傘をささず、きつい背なかだった。」という「きつい背なか」とはどんな背中だろうか。そして、「風に吹きぬけられたようなものが残った。」と印象を記している。

荷風の自炊生活をどこかから聞き知っていた幸田露伴に、娘は「お父さん、永井さんの買物籠は鹿の皮のちゃんちゃんこなんでしょうか。」と問いかける。「鹿の皮」が何のことだかチンプンカンプンだが、露伴は答える。「さようさ、フランス流じゃちゃんちゃんことは云うまいけれど、まずまあ鹿の皮と云っていいところだろう。」娘は「父がいささか羨ましげであると見てとった。」のだが、じつは「鹿の皮のちゃんちゃんこは父の理想の生活のこと」と知っていた。「人に煩わされず煩わさず、好きな道に専念し簡易な生活をする。木の実草の芽でも食は事足り、縫針のいらない鹿の皮のちゃんちゃんこでいたい。」とする生き方である。

露伴の追憶記を書いたあと、幸田文は荷風とのことも「私の見て来たものは父のがわからでしかないが、書いておきたい」とも思い、とすれば「書くことの許可をいただくのが、なすべき礼儀」として菅野に荷風を訪ねる。「こちらに気を置かせない優しいあつかい方で請じ入れて」くれた荷風は、まさに「沢山のいろんなことを通り過ぎて来た人のこだわり無さ、フランスのちゃんちゃんこ」そのものだった。というわけで、幸田文ならではの荷風像が彫琢されるのである。

伯父鷲津精一郎(毅堂長男)の養子となった、荷風の弟・貞次郎の子である鷲津郁太郎は「荷風回想」のなかで、佐藤春夫の『小説永井荷風伝』の「罵詈讒謗」を親族ならではの眼をもって糺している。その一例。荷風伝に「荷風が幼少時代母から受けて終生の指針とした金銭取扱ひの躾も想像するに難くない」と記されているが、祖母のつねは「ハイカラな人」であり、しかも「金銭には恬澹な方で、すべてにおおらかな性格であった。」と証言し、「在りし日は鞠躬如として仕えた人が、死人に口なしの先師を罵る」ような「悪い世の中」になったと嘆息するのである。

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