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芥川龍之介「青年と死と」と龍樹菩薩

この4連休も引き続き、芥川竜之介『蜜柑・尾生の信 他十八篇』そのⅥ。第三次「新思潮」5月号に発表した芥川の処女小説「老年」に、「山城河岸の津藤が催した千社札の会の話しが……」と、芥川の大叔父である津藤(細木香以)がサラリと顔を覗かせているのに気づいた。津藤を主人公にした「孤独地獄」を、たまたま先に読んでいたから目にとまったので、そうでなければ見逃していたに違いない。と言っても、さしたることではない。

続いて、同9月号に発表した「青年と死と(戯曲習作)」は、上演されることを意図しない「レーゼ・ドラマ」である。その意味では後に書く「浅草公園ー或シナリオー」と同じであるが、それは措くとして、青年AとBの前に「己は死だ」と名乗る黒い覆面の男が現われ、生と死と快楽をめぐって問答をたたかわせる。そこには青年・芥川の生死観をめぐる模索が素直に綴られていて、栴檀は双葉より、ということか。

男はBに言う。「お前はすべての欺罔(ぎもう)を破ろうとして快楽を求めながら、お前の求めた快楽その物が矢張欺罔にすぎないのを知らなかった。お前が己を忘れた時、お前の霊魂は餓えていた。餓えた霊魂は常に己を求める。」「己を忘れるのは生を忘れるのだ。生を忘れた者は亡びなければならないぞ。」と。「先臨終の事を習うて」ということでもあろうか。

男がAに「己はお前の命をとりに来たのではない。」と言うと、Aは答える。「いや己は待っている。己はお前の外に何も知らない人間だ。己は命を持っていても仕方ない人間だ。己の命をとってくれ。そして己の苦しみを助けてくれ。」と。そこに第三の声が響く。「莫迦な事を云うな。よく己の顔をみろ。お前の命を助けたのはお前が己を忘れなかったからだ。」と。さらに第三の声は「夜明だ。己と一緒に大きな世界へ来るがいい。」と呼びかけ、男とAの二人は「黎明の光の中に」出て行くのである。

ところで、「己」(おのれ)は「自分」を意味するが、時に「おのれ」と相手を指す言葉でもある。芥川は「己」に二つの意味をダブらせながら、自身の中の生と死の問答という、生命の深層を描き出そうとしたのではなかろうか。

文末に「ーー竜樹菩薩に関する俗伝よりーー」とある。石割透「解説」によると、「竜樹菩薩の逸話は、『今昔物語集』にも見えるが、芥川はこれを書くに際して『仏教各宗高僧実伝』(一八九三年、博文館)に基づいたとされている」というので、公開されている国立国会図書館デジタルコレクションでザッと目を通した。大学時代に「竜樹菩薩に関する俗伝」まで渉猟している、その読書力に驚嘆した。

ちなみに、代表作「鼻」に、釈迦の十大弟子の一人で神通第一と称された目連、同じく智慧第一とされた舎利弗、『大智度論』などを著して大乗仏教を宣揚した龍樹、叙事詩作品『仏陀の生涯』を代表作とする馬鳴の名前があげられていたことから、仏教について芥川の関心は奈辺にありや、をうかがい知れるのではあるまいか。

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