古き出版事情を温ねて―永井荷風『鷗外先生-荷風随筆集』摘録(続々)
永井荷風『鷗外先生-荷風随筆集』の「書かでもの記」は、それを「嘉加伝毛乃記(かかでものき)」と表記して、曲亭馬琴の『伊波伝毛乃記(いわでものき)」に「いさゝか名は似たれども」としながら、ゆめゆめ「暗に人をそしりて己れを高うせん」なぞという「不都合の下心あるにあらず」とことわっている。かと言って、荷風の「書かでもよきこと書くは唯いつもの筆くせ」と言うに過ぎないはずもない。
まずは「わが売文の由来を顧み尋(たずぬ)る」と筆を起こす。明治三十年代中頃においては、「文学小説の出版としいへば殆ど春陽堂一手の専門にて作家は紅葉露伴の門下たるにあらずんば殆ど其の述作を公にするの道なかりしかば」という出版事情にあった。そこで、荷風の友・巴山人(はさんじん)が「奮然意を決してまづ吾等木曜会の気勢を揚げしめんが為めに資を投じ美育社なるものを興し月刊雑誌饒舌(じょうぜつ)を発行」した。そこに荷風は小説を発表し、『野心』が出版された。
つづいて教科書出版の版元として名高い金港堂が、文芸出版に乗り出す。荷風の『地獄の花』は、金港堂の創刊した文芸誌「文学界」が募集した長編小説の懸賞に応募し、選には入らなかったものの、「編輯諸子の認むる処となり単行本として出版せらるゝの光栄を得た」のであった。懸賞小説といえば、それ以前から「毎週萬朝報(よろずちょうほう)の募集せし短編小説に余も二三度味をしめたる事」もあるが、『地獄の花』を出してから、「どうやら斯うやら新進作家の列に数へ入れらるゝやうになりぬ」と回想する。
とはいえ、その後いくつかの文芸誌に原稿を持ち込んでも、三度に一度はしぶしぶ買われても、なかなか公にされることはなかった。そこで、知人を介して「新声社に赴き夢の女と題せし一作三百枚ほど持てあましたるものをば無原稿料にてよろしければと急ぎて又単行本一冊を出版」する。この「新声社は即(すなわち)いまの新潮社が前名」である。「この一書さして版元の損にもならざりしと見えつゞいて女優ナゝの出版にこたびは原稿料三拾円を得たり」というから、買い切りの原稿料であって、印税払いではなかったようである。
荷風の『あめりか物語』は、フランスにて草稿をとりまとめ、巌谷小波宛てに郵送して出版のことを依頼したものである。翌秋、帰国したときにはすでに刊行されていたので、フランス滞在中から帰航の船中でまとめた草稿を仕上げ、「ふらんす物語と名づけ前著出版の関係よりして請はるゝまゝに再び博文館より出版せしめしが忽ち発売禁止の厄に会ひ」というにとどまらなかった。
というのも、荷風からは「最初出版契約の際受取りたる原稿料金百弐拾五円を返済すべし」と申し出たのだが、博文館側は出版契約書を盾にとって損害賠償を強要し、その談判は八年間も落着しなかった。そもそも出版の意思決定をした版元とその編集者の責任は問われないのか。経過の詳細は省くとして、著者に「発売禁止」の損害賠償を強いるなぞ、今日の感覚からはまったく解せない。荷風が「書肆を恐れ憎むこと蛇蝎(だかつ)の如くなりぬ」とするのも宜なるかなである。
一方、「歓楽」の一篇は「初め新小説に掲載せし折には何事もなかりし故……易風社(えきふうしゃ)の主人に請はるゝまゝ其他の小篇と合せて一巻となし出版せしめたるに忽ち発売禁止」の憂き目にあった。易風社からはすでに壱百円の謝礼を受け取っていたが、先の「博文館の如く無法なる談判」を起こすことはなかった。荷風は「重々気の毒になりいそぎ荷風集一巻の原稿をつぐのひとして送りけり。この著幸(さいわい)にして版を重ねき」という、好ましい事例もまた書きとめている。
菓子折に紹介状を添え、竹馬の友・井上唖々子と連れだって、荷風が「文藝倶楽部」主筆の小説家・三宅青軒(せいけん)を訪うたのは、「文藝倶楽部によりて其の作を発表せんには是非にも主筆の知遇をまたざる可からずとて怒を忍び辞を低うして虎の門外なる家を訪(と)ふものも尠なからず」という次第のためであった。
そこで、「文章を書かんと思はゞ何はさて置き漢文をよく読み給ふべしそれも韓柳(かんりゅう)の文のみにて足れりといふにあらず……」云々と、青軒は露伴を引き合いに気炎を吐く。荷風と唖々子は「問はるゝまゝに聊(いささ)か答ふる処ありしにぞ大いに青軒翁の信用を博し其の夜携へ行きける我が原稿は唖々子のものと共に即座に文藝倶楽部誌上に掲載の快諾を得たりき」とあり、まさに首尾よく獲物を手にしたのである。
ことほど左様な文芸界にあって、慶應義塾が文学部を大刷新し、「漸々(ようよう)文壇に於て大活躍を為さむとする計画」を立てたのは、あるいは時機を得ていたのではないか。「三田側の諸先輩一同交詢社にて大会議を開き森鷗外先生にも内相談ありしやうに覚え候が、義塾の専任となりて諸の画策をする文学家を選」ぶ運びとなった。まず白羽の矢を立てられた上田敏は京都大学の関係上難しいやも知れず、その際は「森先生は貴兄を推薦なされ候」という、その経緯をすべて打ち明け、荷風宛てに「貴兄は此交渉に御応じの御心如何(いかが)にや、三田の中心となりて文壇にそれより御雄飛の御奮発は小生の偏(ひとえ)に懇願する所何卒御快諾の吉報に接したく存居候」と書簡を寄せたのは、パリで知遇をえた上田敏その人であった。
荷風からの受諾の返書に対し、「張目飛耳(ちょうもくひじ)の徒多き今の文界なれば万事決定迄(まで)何分内密に願上候」とことわりながら、折り返し書かれた上田敏の書信。
「折角の壮挙ゆゑ三田の方御助力を懇願仕候御謙遜の御手紙なりしが決して貴兄ならば成功せざる筈無しと確信仕候殊(こと)に御自身教鞭を執らるゝのみならず其上向後の発展上一種のElanを与へ奮心を惹起する任務は普通の学究にては出来にくかるべしと思へばこそ貴兄へ懇請仕候ひしかと存候」
また、「三田文学」の刊行に際しては、上田の書簡は「ますます細事に渉(わた)りて懇切をきはめぬ」ものであった。
「其後三田文学御経営の事如何(いかが)に相成候や過日大倉書店番頭原より他の事にて二回ほど書面有之候序(ついで)に、はじめは談判不調(略)次にはまた再度貴兄及び塾と談合をはじめたる趣を書添へ居候兎(と)に角(かく)雑誌御経営の困難御察申候」
つづけて、原稿料のこと、広告収入と採算のこと、自身の寄稿の締め切り期限など、たしかに事細かな心遣いである。
荷風を編集長として創刊された「三田文学」は、久保田万太郎、水上瀧太郎、佐藤春夫、小島政二郎ら多くの塾出身の逸材を輩出した。また、鷗外は創刊号の巻頭を写生小品「桟橋」で飾り、つづけて「普請中」(六月号)、「花子」(七月号)、「あそび」(八月号)、「フアスチエス」(九月号)、「沈黙の塔」(十一月号)、「食堂」(十二月号)と矢継ぎ早に問題作を発表して、「三田文学」の誌面を賑わした。
なかでも「フアスチエス」は、「文芸に関する処罰の事を‥‥少し伺ひたい事がございますので」と、文士が判事に話しかけて始まる「対話」を通して、権威の標章ファスチェスを振りかざす公権力の「文芸検閲」(言論統制)に異議を呈す作品である。「沈黙の塔」も、「パアシイ族の血腥き争闘」に仮託して、大逆事件以後の明治政府の言論政策を重ねて批判し、「どこの国、いつの世でも、新しい道を歩いて行く人の背後には、必ず反動者の群がいて隙を窺(うかが)っている。そしてある機会に起って迫害を加える」と結ぶ。「食堂」は、弁当箱を広げて交わす役人三人の会話によって、無政府主義者の系譜解説を試み、やはり学問や芸術への迫害を危惧する短編である。
そして、谷崎潤一郎の短編「飆風(ひょうふう)」を掲載の「三田文学」十月号が発禁処分をうけたことから、それまでの大学側からの風当たりがいっそう強まり、荷風はついに嫌気がさして辞任した。だが、荷風はここで多くを語らず、「大正五年われ既に病みてつかれたり。正に退いて世の交(まじわ)りを断たん事を欲し妓家櫛比(しっぴ)する浅草代地の横町にかくれ住む」とのみ記している。なお、今も「飄風」の伏せ字はそのままである。
付録として併載された正宗白鳥「永井荷風論―文明批評家として」に、荷風の「滑稽諧謔」にふれて、「日本在来の文学演劇にファシズム鼓吹の傾向が濃厚であったのは事実なので、それに対立して、滑稽諧謔趣味が栄えていたのだ」とある。さて、古きを温ねて新しきを知らんではないが、いよいよデジタルの時代を迎えて、これからの出版界はどのように変貌、あるいは革新していくのだろうか。
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