フランシス・ベーコンの自画像と花と皮膚と祈り
昔のメモ帳を見つけて開いてみると、自分でみても当時何を残して置きたかったのかわからないものがある。
何ページか、フランシス・ベーコンについて書いてあって、どうも当時ベーコンの絵について思うことがあったみたいだった。
「フランシス・ベーコンの自画像」と囲われた項目の中には
オレンジ色の背景
フレームの中の人
彼らは話すことが出来ない
口を持たないからだ
フランシス・ベーコンの歪んだ肉体,
ぬめる皮膚,
フレームの中で絶叫する教皇
皮膚の下の感知性
とだけメモされていて、何の為のメモだったのかは今の自分が読んでもわからないけれど、今でもベーコンの絵を見て感じることは同じ言葉で表すことができるな、と思った。
近くのページには「花と皮膚」と題された項目があって
花と皮膚
→花は?
とだけ記されていた。
当時の私は花については疑問を持っていて、皮膚については疑問を抱いていなかったのだろうか。
多分、当時(それよりもずっと前)から皮膚というのは"自分と世界の境界"だと信じていたから、疑問はなかったのだと思う。
だからか次のページには「花と境界」というタイトルがつけられていて
境界は祈りだ
と書かれていた。
皮膚は自己と世界を切り分ける境界で、"世界に相対する自己の存在をどうにかして信じたい"という様なことが書いてあった。
その文の結びには
おそらくは存在しない「自己」というフレームを如何にかして立たせ様と祈る
と結ばれていた。
皮膚の存在というのは私たちの祈りで出来ていて、つまりそれはふわふわと安定しない自己という存在を規定する境界としての機能を持たされている。
私の皮膚の外が「世界」であって、あなたの皮膚の下が「あなた」という存在であって、私たちはただ世界の中に泡の様にふわふわと浮かんでいる。
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