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乳酸について


中距離レースで自分の限界に挑戦したことのある人には、ゴール前の死にたくなるほどのキツさがわかると思いますが、長距離レースとは異なる感覚ですね。

この現象は、乳酸によるものとよく言われますが、乳酸とは何か、乳酸が疲労や体の痛み、回復にどのように影響するかについて、整理したいと思います。

乳酸神話

乳酸は、「嫌気性代謝の邪悪で衰弱した老廃物である」という考えは、ドイツの生化学者オットー・マイヤーホフの功績に基づいています。彼は、酸素の消費と筋肉中の乳酸の代謝に一定の関係があることを発見し、1922年にノーベル医学・生理学賞を受賞した訳ですが、マイヤーホフは、ブドウ糖が分解されて体内のエネルギー源であるアデノシン三リン酸(ATP)が生成される解糖系の研究を行いました。カエルの足の筋肉に電流を流して刺激を与え、筋肉の収縮機能が失われることを発見し、さらにその筋肉を調べてみると、乳酸の濃度が非常に高いことがわかり、乳酸が筋肉の機能を阻害しているのではないかという仮説のもと、筋肉の生理を調べた多くの研究で同様の結論が得られた、ということだそうです。

乳酸はマイナスの電荷を持つ陰イオンであり、プロトン(H+、水素イオン)とペアになると、有機化合物の乳酸を形成します。一方で、運動するときのエネルギー源としてブドウ糖が必要なことはよく知られています。しかし、筋肉の収縮に必要なのは、ブドウ糖そのものではなく、ATPです。

グルコースは、他の多くの分子とともに分解されたり、酸化されたりして、ATPを生成します。これは主に2つの段階で行われます。(グルコースが最初に行う一連の反応が解糖で、グルコース(炭素数6)が分解されて、最終的に2つのピルビン酸分子(炭素数3)と2つのATP分子が生成されます。)

酸素があると、このピルビン酸分子はミトコンドリアでさらに分解されて二酸化炭素を生成し、さらに多くのATPを生成します。

この好気性呼吸(酸素存在下)は、体内でATPを生成する最も効率的な方法といわれていますが、スプリント時には、好気性代謝に必要な酸素を十分に行き渡らせるための時間が足りず、ATPを十分に供給することができません。そのため、解糖がATPを生成する主なメカニズムとなります。しかし、グルコースを分解し続けるためには、特定の化合物を再生する必要があり、このプロセスでは、ピルビン酸にプロトンが付加され、乳酸が生成されます。

乳酸は、ピルビン酸にプロトンと呼ばれる水素イオンを加えて生成されます。プロトンは何かを酸性にするものであり、陰イオンである乳酸はプロトンと結合する能力があるため、緩衝剤として働き、酸性度を下げることができます。

運動による酸性化にはいくつかのメカニズムがありますが、上記のような仕組みがハードな運動をした時にに感じる感覚の原因であると考えられており、乳酸は実際に痛みの感覚を軽減する役割を果たしていると考えられます。

カリフォルニア大学バークレー校のジョージ・ブルックス博士は、乳酸が筋肉や心臓、脳のエネルギーになることなど、数々の研究成果を発表しています。

乳酸は、他の細胞に移動することで、そこでピルビン酸を再生してミトコンドリアで好気的呼吸を行うか、2つの乳酸分子を使ってグルコースを再生するなどの働きをもっています。

一般的にスプリントで使う速筋はミトコンドリアの数が少なく、遅筋よりも多くの乳酸を生成します。逆に遅筋酸素の利用効率が高く、持久力を発揮します。そのため、遅筋に乳酸が蓄積されると、隣接する速筋に乳酸が移動し、より多くのATPが生成されるように燃料として働き、運動を持続させることができます。これにより、血液中の乳酸を運動中の筋肉から非活動中の筋肉に移動させてエネルギーの基質としたり、心臓や脳に運んだりすることもできることになります。

また、乳酸は、記憶形成や神経保護などの複雑なプロセスにも関与していると考えられている一方、筋疲労の主な原因ではないという研究結果もあります。

筋疲労は多因子性であり、乳酸自体は筋疲労に全く関与していない可能性が高いことが研究で示されています。ブルース・グラッデン博士は以下のようなコメントをしています。

「20世紀のほとんどの期間、乳酸は低酸素による解糖の最終的な廃棄物であり、運動後の酸素負債の主な原因であり、筋疲労の主な原因であり、酸化よる組織損傷の重要な要因であると考えられていました。1970年代以降、「乳酸革命」が起こりました。現在では、無酸素または非酸素(低酸素)の結果として乳酸の生成と濃度が増加することは、多くの場合、例外であると考えられています。乳酸による酸化は、筋肉疲労の要因として再評価されており、乳酸は、もはや疲労の容疑者と考えることはできませんが、代わりに細胞、地域、および全身の代謝の中心的な役割を果たしています。」


乳酸が犯人でなければ、筋肉疲労の真の原因は何でしょうか?無酸素的なトレーニングの終了時に減速するのら、グルコースの枯渇事態がは疲労の原因ではなく、これは持久的な能力に関連しているといわれています。また、筋繊維は生理的な温度では酸性状態の影響をほとんど受けないことがわかっているので、マラソン完走後のような酸化状態自体も、疲労の真の原因にはならないようです。

一方で、その他に筋収縮力の低下を説明するには、いくつかの説があります。①筋収縮の燃料となるATP(アデノシン三リン酸)が分解されて放出されたリン酸がその後の筋収縮での力発生能力を低下させるか、②筋収縮によって発生した活性酸素が、その後の筋収縮を阻害する、もしくは③筋細胞とその周辺のカルシウム分布の変化によって力が失われる、ことが原因と考えられています。

激しい運動の翌日に痛みを感じることがあるとおもいますが、ハードな運動をした翌日の遅発性筋肉痛は、蓄積された乳酸が原因だと一般的に考えられていました。またしても乳酸は不当に悪者扱いされているわけですが、これが正しくないことは、1980年代の研究でも知られていたことです。しかしながら、いまだにトップレベルのスポーツ界では根強く残っているようで、現在、この遅発性の痛みは筋繊維への微小な外傷と炎症反応が原因であると考えられています。

また、ハードな運動をした後のウォームダウンや翌日のジョグは、「脚から乳酸を出すため」に重要であるという説もありまが、どうやらこれも科学的な裏付けはないようです。確かに、ウォーキングやジョギングをすると、乳酸値が正常に戻るまでの時間が短くなり、基準値への戻りは比較的早く起こります。レースやハードなトレーニングの翌日にジョグする頃には、その努力によって発生した乳酸は、とっくに筋肉から抜け落ちているはずです。ブルックス博士は、「疲れる」運動をした後は、乳酸が優先的なエネルギー源となり、嫌気性呼吸を使わなくなった筋肉や、肝臓でグルコースを再生するために燃焼されると指摘しています。

乳酸閾値

ご存知の通り、乳酸閾値とは、血中乳酸濃度が指数関数的に上昇する運動強度のことですが、乳酸閾値は、持久力のパフォーマンスを予測する優秀な指標の1つであることは既に多くの方がご存知かと思います。

一方で、アスリートの乳酸閾値と密接な関係にあるのが、酸素利用能力を表すVO2 maxです。VO2maxが増加すると、一定の強度でより多くの酸素が筋肉に供給されることになり、細胞の無酸素代謝への依存度が低くなります。

また、乳酸閾値を高めるということは、アスリートが乳酸の蓄積が始まる前の「余裕」があり、より高い強度で運動できることを意味します。一方で、乳酸閾値に伴う乳酸の増加や、乳酸閾値を超えたときに見られるパフォーマンスの低下は、乳酸が原因ではないことがわかっています。むしろ、パフォーマンスの低下につながる他の変化と歩調を合わせて乳酸が生成されている、と考えるのが正しいのかと思います。

激しいトレーニングは、乳酸閾値とVO2maxの両方を向上させますが、筋力トレーニングには乳酸閾値を高める効果がありますが、VO2 maxには効果がない、という研究もあるようです。

乳酸神話のいくつかは謎解きしましたが、結局ラストスパートのあの死にたくなるほどのキツさの原因は解明されていないということですね。。

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