![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/132914424/rectangle_large_type_2_27d3d1e6aed8a66f1a7d5418e4a71706.png?width=800)
Photo by
フィンセント・ファン・ゴッホ / メトロポリタン美術館
AIの描いた絵を受け入れたくない理由
AIの絵と肉筆の絵の違いは、
線の太さと、濃淡
だと思っている。
知人が写真みたいな精緻な絵を描いていて、昔は
「これだけ描けるのなら、もう写真で良いのでは?」と、密かに思っていた。
しかし、その時からたくさんの絵を見てきて、気付いたことがある。
肉筆で描いている以上、線の太さや濃淡により、はからずも絵がデフォルメされ、それが特徴となり、写真が平面だとすれば、肉筆はより立体的であり、肉感的で、「伝えたいと思ったことが、より伝わる」のだと思っている。
AIの絵は、大作の宗教画みたいなものもあるが、
やはり作者が何も無いキャンバスと向き合い、無から思考し、作為的に、己の喜怒哀楽のすべてを込めて創作したのだ、という厚みがないと思う。
AIの絵にも、偶然苦悩に満ちた、作者の思考をトレースしたかのような筆致や表現がある作品も、やがて出るのかもしれないが、それが創作において100%恣意的に描いたという保証がない限り(作者であるAIがどのようにかして語らない限り)、偶然であると言わざるを得ないため、鑑賞に足るべきものではない、味わって楽しんでいいものかと、個人的には躊躇する。
なぜなら、
芸術を鑑賞したい時は、癒されたい時、人生に疲れ、共感が欲しい時、
だと思うからだ。
やはり絵画も文学と同じく、作家のバックグラウンドとその作品を切り離して考えるべきものだと思うが、作家に思いを馳せるプロセスが、あってもいいと思う。
年代により変わる特徴や、浮き沈みのある人生において、それでもなお創作をやめない、そこに価値が生じると思う。
紡がれたストーリーは、人にしかないものだ。
深奥と深奥がリンクしたとき、人は充足する。