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フィクション(バリー・コーガンに飢えた話)

急にバリー・コーガンに飢えた。
バリー・コーガンを摂取したくなった。
というより『聖なる鹿殺し』を観返したくなった。
そして観た。続いて『アメリカン・アニマルズ』も観返したくなった。

『アメリカン・アニマルズ』。
やっぱり面白い。
ドキュメンタリー監督のバート・レイトンが撮った六年前の劇映画で、フィクションとリアルの境界を壊し続ける映画と言うか、そもそもそんな境界なんてなかったんじゃないかと思わせる作品だ。
当時劇場で観たとき「なんやこの映画、めちゃくちゃおもろいやんけ」と思った傑作なのだが、久々に観ると考えてしまうことがある。

『アメリカン・アニマルズ』は”実際にあった現実の事件(大学生の若者たちによる強盗犯罪)”を”基にした”虚構の映画なのだが、主役の実在する若者たちの中でもっとも虚構の世界で生きている、ウォーレン・リプカという男がいる。
彼は現実の世界において、「かっこいい犯罪」という虚構への一線を超えてしまうことを推進し続けたこの事件の首謀者だ。
そのウォーレンが映画の最後、「服役後、彼は大学に再入学して映画監督になるために映画を学んでいる」と明かされる。

『アメリカン・アニマルズ』が公開されて六年。
ウォーレンが現在何をしているか、あれだけ現実にフィクションを持ち込んでしまった人間がどんな映画を撮っているか気になって調べてXのアカウントを見ると、どうやら映画を撮っている気配がない。

ウォーレンには失礼だが、勝手に悲しくなった。
もし彼が、あのイカれた行動力を(悪い方向に)発揮した彼が、あの犯罪をしでかさなかったら、もっと物語を語る、フィクショナルな世界を作り上げることができたのではないだろうか、と思えてしまうからだ。
もしかしたら、あの事件を妄想だけで終わらせて、自分の作品に仕立てることもできたかもしれないのに、現実に耐えられず妄想を現実に持ち込んだせいで他人に映画にされてしまうことの虚しさ。
ウォーレンが物語を語る側になるなら、ウォーレンとエバン・ピーターズが演じた"ウォーレン"を乗り越えなければいけないというフィクションによる呪いにかかったのだろう。

そしてこの事件は、主役のバリー・コーガン演ずるスペンサー(オーデュボンの本に魅入られて強奪しようという犯罪のきっかけを作る)も呪っているかもしれない。
スペンサーは元々の志望通り、画家を目指して画家になるのだが、本人のInstagramを調べると、オーデュボンと同じような鳥の絵を描き続けている。スペンサーも、ウォーレンと同じくあの犯罪をしでかさなかったら、はたしてそんな画風に進んでいたのだろうかとも妄想してしまう。
自分が人生を壊してまで盗もうとした絵と同じような絵を描いているという人生の奇妙な面白さもある。
(それだけオーデュボンの絵に魔性の魅力があったのかも)

スペンサーが一回強奪計画から降りて逃げた夜、路上で観た鳥の幻覚のシーンがこの映画で一番好き。
これは本人の証言でも語られていないので、監督が”虚構だが心象のリアル”として描いた部分だと思う。
なんとなくスタンド・バイ・ミーの鹿のシーンを思い出した。

終わり。

なんでバリー・コーガンに飢えたのか考えると、先日観たランティモスの新作『哀れなるものたち』がめちゃくちゃ面白かったけど、なんか物足りんかったからかも。

「ランティモス観返したい」「『聖なる鹿殺し』観よう」から「バリー・コーガン摂取したい」に繋がったのだと思う。

『アメリカン・アニマルズ』の監督、いまバリー主演の映画撮ってるらしいですね。めっちゃ楽しみ。


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