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父と私

叱り役だった父


 小さいころ、私にとって父のイメージの中心は、畏怖だったのかもしれない。なぜなら、父と二人きりでいると、私は何を話したらいいかわからなかった。父の前では沈黙してしまい、その静寂を私はとても気まずく感じた。父のほうはというと、沈黙を変えようとしなかったので、その状況を気まずいとは感じていなかったのかもしれないが、ほんとうのところはどうかわからない。
 父に対して畏怖を感じる原因を考えていると、次のようなことによるのだろうと思い至った。小さいころ、私のしつけにおいて、父はとても権威的な役割を担っていた。どういう基準でそうなるのかはわからなかったが、私の家庭では、その基準にてらして「かなり悪いこと」をすると、母が怒るのではなく、父が帰ってきてから、父の書斎でしつけをされることになっていた。
 どんなことで怒られたっけなと記憶をたどっていくと、ひとつのエピソードを思い出した。当時私は、東京の西大井にある2階建て3DKの一軒家に住んでいて、妹と共用の子供部屋が私の居場所だった。子供部屋は2階だったが、幼稚園生のころだったか、ある日小便がしたくなったとき、私のいたずら心が頭をもたげ、部屋の窓をあけて、そこから放尿をしてみた。2階の窓から地面に至る長い放物線を見て、子供のいたずら心は満足できたが、それを母に見つかってしまった。そして、母は私をとがめた後、この件は父に叱ってもらうと宣告された。父に叱られることが明らかになると、私はいつも絶望的な気持ちになり、父が返ってくるまでとても落ち着かない時間をすごすことになる。
 父は私をしかるとき、帰宅して少したってから、「研、部屋に来なさい」と私を書斎に呼ぶ。書斎には座布団が二つ並べられ、私は父の前に正座するように言われる。そして、自分が行った「悪いこと」に対して、どう感じているかと尋ねられ、反省の弁を話すように促される。幼い私はそれに対して流ちょうには答えられないので、「そのことで他者がどう思うのか?」「そのことでどんな影響があるのか?」などの誘導尋問がある。その質問に沿って私は、「はい、ほかの人に迷惑になります」などの答えをする。そして、自分が「悪いこと」をしたことを認めた後に、反省の弁を述べさせられ、最後にほっぺたを1回たたかれる。
 たたかれる際、それまでのプロセスがとても怖いので、父が右手を引くときは「これからどんな痛みが左頬を襲うのだろう」と、激しい恐怖の感情がやってくる。しかし張り手は想像とは異なり、それほど痛いものではないので、拍子抜けした気持ちになる。恐怖から解放された安堵の気持ちも相まってか、張り手が終わってから私は激しく泣く。父は「もう戻っていい」と言い、私は部屋に戻ることを許される。
 このようなしつけを、私は不当だったとは思っていない。むしろ、心理学でいう行動療法という観点から、望ましくない行動を効果的に消去するための、上手なシステムを作り上げていたものだと感心するぐらいだ。
 ただ、小さいころの自分の感情に思いを馳せれば、しつけの際の権威的な雰囲気の中で、自分の感情や言い分を話せる雰囲気ではとてもなかったことにも思い至る。現代の親だったら、「ついいたずらしたくなっちゃったのね」などと、少しは子供のこころに寄り添うようなコミュニケーションをとることが多いかもしれないが、私の場合はそうではなかった。不本意に父の意見をそのまま受け入れざるをえなかったのだろうから、自分の気持ちの中には、父に対する恐怖とともに、相当な無力感があったのだろうなと想像する。なので、二人きりになったとき、私は父に対して自分から口を開くことができなかったのだろう。
 そして、その権威をもって、父は私に「社会の役に立つ人間になるように」という、生きていく上の条件(=Must)を命じた。それは若いころの自分の中の憲法のようになっていて、少し前まで、私はその条件を満たすために苦しんだ。別の言葉でいえば、内なる父と格闘していたともいえる。

「優しいお父さん」との旅行


 小学校2年生の夏、なぜか私は父と二人で広島に旅行に行くことになった。広島の「原爆の日」を私に見せておきたいとのことだった。
 権威的な父と2人なんて気まずいなあと思ったが、意外と父は楽しそうで、始終気さくだった。東海道・山陽新幹線は、金沢に帰省するために米原まではよく乗ったが、それから先に行くのは初めてで、私にとって未知の世界だった。ひかり号が姫路に止まった時、「ここには豊臣秀吉が作った日本一美しいお城があるんだよ(*正式には秀吉が作ったのは天守閣)」などと教えてくれたのを覚えている。
 今はリーガロイヤルホテルに変わっているらしいが、その日は当時存在した広島グランドホテルに宿泊した。父は、「ここは広島で一番よいホテルなんだよ」と、誇らしげに話していた。夜、私は緊張のためか、鼻血を出して、ホテルの毛布をよごしてしまった。父は「大丈夫?」と、心配して私に声をかけた。そしてティッシュを渡してくれて、汚れた毛布を新しいものに交換した。
 翌日は平和記念式典に参加し、その後平和記念資料館を見た。当時の自分がそのことの意味をきちんと理解できていたとは思えないが、黙とうに参加し、子供ながらにただならぬ雰囲気は感じた。原子爆弾による熱線で、人影がそのまま残っている写真を見たことが記憶に残っている。
 そのあとだったか、広島から当時国鉄の呉線の快速に乗った。ボックスシートに腰掛け、父は「呉線は海側を通って、三原まで行くんだよ。そこでまた山陽本線と合流するんだ」などと説明してくれた。鉄道が好きだった私は、その旅が楽しかった。
 そのあと、どこかの駅で降りて、瀬戸内海に浮かぶ下蒲刈島に渡し船で渡った。今は連絡橋ができているが、当時はおそらく渡し船が主な交通手段で、渡し賃は50円だった。都内のバスの大人運賃が90円だったから、だいぶ安いなと思ったことと、エンジンがポンポン音をたてるので、ポンポン船と呼ばれていたという記憶がある。父は戦争中に生まれ、祖父が疎開したのが、その下蒲刈島の三之瀬というところだったそうだ。小さいころ父をかわいがってくれたというおばさんを紹介され、父は懐かしそうにおばさんと談笑していた。
 三之瀬をあとにして、竹原市にある父の従兄の家に行った。私は年上の”はとこ”たちに遊んでもらい、お好み焼きを近くのお店で食べ、楽しい時間をすごした。その日の最後は瀬戸内海の島に住んでいるおじさんの家に泊めてもらった。その家にはやさしいお姉さんがいて、お菓子をたくさん食べさせてくれた。
 次の日の午前中は、泊まった家のおじさんのモーターボートで、瀬戸内海の誰もいない砂浜に連れて行ってもらい、海水浴をした。私は少しはしゃいでいたのか、沖に向かって思いっきり泳いでいった。泳ぎ疲れて立とうとしたら、足がつかずおぼれた。大混乱に陥り海水をのみながらもがいていたら、父がすぐ後からついてきていたのか、腕を引き上げてくれた。それこそ死ぬかもしれないという恐怖から助けられて、とてもほっとした気持ちになった。
 断片的な記憶の羅列で、読者の方にはよく伝わらなかったと思うが、私は父との旅行を満喫した。たった数日の交流だったが、このような楽しい体験を経て、私の中では父は畏怖の対象から、安心を与えてくれる「やさしいお父さん」になっていた。
 広島からの帰り、米原まで母が迎えに来ており、私は母の実家の金沢にそのまま向かった。父は仕事があるとのことで東京に向かった。東京に帰って、「やさしいお父さん」とまた会えるのが楽しみだった。

父の本性


 金沢から東京に戻った日、私は「やさしいお父さん」が仕事から帰るのを心待ちにした。その日は母に「まだ帰らないの?」と何度も聞いたかもしれない。そして、帰ってきて、父はガチャっと玄関のドアを開けた。私は「やさしいお父さん」が帰ってきたと胸が高鳴ったが、父は笑顔もみせず、「研、どうした?」と私にぶっきらぼうに声をかけた。その瞬間、私は大きな喪失感を感じ、「うん」と力なく返事をしたように記憶している。
 広島旅行のときの父は、まぎれもなく私のこころの安全地帯だった。幼い私は、これからも父が安全地帯になってくれるのではないかという期待を持ったのだ。だがその期待ははかなく崩れ去った。そしてまた、旅行に行く前の父との関係に戻った。

 強かった父も昨年10月の誕生日で80歳になった。父の背中は曲がり、今や畏怖する気持ちはなく、自分の考えが父の意見に左右されることもなくなった。そんな父に会うと、どことなくさみしい気持ちになった。私はふと父との広島旅行を懐かしく思い出し、この文章を書こうと思ったのだ。
 そして、私の精神科医としての経験も踏まえてよくよく考えてみると、広島旅行のやさしくひとなつっこい感じが、実は父の本性だったように思う。しつけの時の張り手が痛くなかったのも、その推理と結びつく。
 あくまでも私の想像だが、東京では、仕事や家庭などでの様々な事情の中、やさしさや感情的な部分を抑圧して生きる必要が、父にはあったのかもしれない。そして、抑圧していた一面がなにかの拍子で頭をもたげてきて、本当の自分のままでいられる広島に、ふと私を連れて行きたくなったのかもしれないとも思った。
 そう考えると、父もさみしさを抱えていたのかもしれないと思う。生後3か月で母を亡くし、厳しい祖母に育てられたという父。そのあと祖父のもとに戻り、母がいない家庭で7人きょうだいの末っ子として育った父。大学時代に結核になった父。成長過程で父がどんな気持ちだったのか、話してくれたことはなかったが、きっといろんな困難を経て、父は気持ちを押し殺す生き方を選ぶようになったのだろう。

親から与えられた型から自分の軸へ


 父が老いてから、私の気持ちの中の変化も感じる。自分がこれからどう生きたいのか、52歳といういい年になって、また少しわからなくなった。人は人生の前半は、親から教えられた型に従って社会の中で生きるための術を学ぶ。そしてだんだんその型を壊し、自分なりの生きる型を作っていく。
 私は父から与えられた型から離れ、完全に自由になれたと思っていたが、そうではなかった。まだ社会に役立つ人間になって、父に褒められたいという気持ちが、少しは残っていたのだろう。父が自分の羅針盤でなくなった今、こんどこそほんとうに自分の軸を見つける必要に迫られているように思う。
 だれにとってもそうだろうが、私も父のことを一言で表すことはできない。父は私を育てくれ、私が生きるべき道を指し示した。私は父に精神的に依存し、反発し、そのほか言葉にしきれないくらい、いろいろあった。
 今はただ、なつかしさと感謝しかない。